まずは半分。小気味いい音を立ててかじり割った焼き菓子が、口の中でさくりとほどける。味は甘すぎず、くどすぎず。しっとりと粉っぽいのちょうど中間、さっくり加減が絶妙だ。香ばしさとバターの風味がほんのりと鼻を抜け、後にくどさが残らない。
つまりなにが言いたいのかといえば、「すっげぇ美味い」、この一言に尽きる。
『一子相伝の技が現代に伝える秘伝の味。エッセンスにパティスリー一同の真心を練り込んでいます。素材を生かした王室御用達自慢の一品、どうぞご賞味ください』
店員の誇らしげな説明によればそういうことらしい。
エッセンス云々の精神論はともかく、王室御用達も納得の高級パティスリーが誇る自慢の焼き菓子。こんな機会は滅多にないとばかりに思う存分ご賞味させていただいてる現在である。ただし、小動物の摂食行動でも観察してんのってカンジな表情でこっち見てる強面おっさんと対面して。なんかイラッとする。その微笑ましげなもの見る顔。
「甘味は好きかね」
「……それなりに」
「ふむ、そうか。私の舌はどうも酒に合うものばかりを好む。だから遠慮しなくて構わないぞ」
「甘いものと酒、合わなくもないけど」
「お、いける口か」
「冬寒いんで」
言われなくても遠慮なく再び焼き菓子に手を伸ばす。隣のテーブル席で繰り広げられる一方的にしか盛り上がってない温度差激しい歓談を横目に。
酒を飲むのに季節が関係あるか、なんてもっともらしく力説を始めたこのおっさんは、ウェインの護衛三人衆の一人。中年を通り越して壮年に片足を突っ込んでそうなくせに、ぴんと張った背筋が「まだまだ現役」を主張している。間違いなく三人の中のボスだろう。ちなみに舎弟感のにじみ出てた他の二人はといえば、ウェインになにかを言付けられてそれぞれ雑踏に消えていった。どこそこの予約がどうのと聞こえたから、お嬢サマエスコート計画をつつがなく進めるためのパシリにされたんだろう。全力で阻止させてもらうけど。主にお嬢サマに。自力で。
そもそもお嬢サマが大人しくウェインの誘いを受け、王室御用達の高級菓子店に入った理由は『揉めて騒ぎが起きたらお父様やお兄様の耳に入るでしょう? そうしたらまた当分外に出してもらえなくなります』……だそうだ。その理屈にもの申させてもらうと、おれはここで騒ぎを起こして応援呼んで撤収、今後もお忍びにつき合わされなくてすむ、になったほうが楽である。お忍びの付き添いも満足にできない無能と判断されるのもなんか嫌だからお嬢サマの方針に素直に従ったけど。そのおかげで実は一度は食べてみたかったこの店の焼き菓子にありつけたのは嬉しい誤算だったわけだけど。
用命受けて走ってった護衛二人のこともあるし、このあとさらっと「じゃあ今日はこのへんで」ってことはないんだろうな……。先送りになっただけの問題から目を逸らして、いつの間にか寄せられてた焼き菓子の籠皿に手を伸ばす。さっくりとした歯ごたえを楽しみながら隣の会話に耳を向けると、お嬢サマはさっきと同じように「そうですか」としか相槌を返していなかった。
「護衛に慣れていないのが丸わかりだ」
飽きることないお坊ちゃんの自慢語りとお嬢サマの相槌。清涼を通り越して、この国の初秋には寒々しさしか感じられない噴水のさざめき。その間に、若干嗄れて渋みがかった苦笑が割って入った。
「張りつめるときに張りつめるのは必要だが、そうでないときを見極めて緩めるのもまた必要。人生万事、緩急使い分けが大事、と。じじいの忠言を聞き入れて悪いことはない。若者よ」
「……そのじいさんは、おれがアレを警戒すること自体は構わないんだ?」
「なに、構うものか。仕事の邪魔と判断したら儂こそ容赦なく蹴散らしてくれる。老兵とはいえ、まだまだおまえのような小童に負けはせん」
「おっかなそうだからお手柔らかに」
おれが肩を竦めると自称すること「じいさん」には見えないおっさんは、言葉とは裏腹に、またあの小動物でも見るような目をよこした。孫と混同視でもしてるんだろうか。迷惑なんだか好都合なんだかよくわからない。
「正直な話、そちらの最大限の警戒は至極もっともだと受け止めるよ。あくまで個人的には、だがね。お館様もぼった間も、いい加減に引き際と見極めてよさそうなものなんだが」
「そこまでわかってるなら、アレを引っ剥がして引きずって帰ってくれるとものすごく助かる」
「そうしたいのは山々……、と。雇われ者の立場というものがある。諦めてくれ少年」
雇用者側の「坊ちゃま」の耳を気にしたのは一瞬。はっはっはと快活に笑い飛ばされたらもうどうしようもない。逃避と抵抗の意を込めて、もう一枚、無言で焼き菓子に手を伸ばした。美味い。さっくさくしてる。
「君が坊ちゃまに掛け合ってみてはどうだね」
おっさんの顔に口の中身吹き出すかと思った。
……うん、それは踏みとどまった。代わりに変なところに飲み下しかけたけど。げほげほと咳こむおれを一応心配したあとも、おっさんの追撃は止まらない。
「坊ちゃまのご学友だったんだろう? 儂が横から口を出すよりは効くと思うんだがね」
「ごがくゆう」
「……親交を持っていたのでは?」
「親交。すれ違うたび鼻で笑ってきたり溝ネズミとか言ってきたり、特待生の切実な就職活動を妨げてくれるのを。親交って言うと」
怨念込めたおれの言い分に、おっさんは閉口。そのままあらぬ方向に視線を泳がせ、おれのことをネズミだと言ってはばからないお坊ちゃんをしばし横目で見つめて、重いため息をついた。こめかみを押しながら「そういうところが大概、お館様に似られて……」なんて小声でぼやいてる。
「いや、まあ、その……なあ。久々に会ったというのに一切会話をしないどころか、目も合わせようとしていない時点でおやと思わなくもなかったんだが。いやはやまったく」
「話見えない」
なにこのおれとアレが仲良しだと思ってたみたいなおっさんの認識。とんでもない誤認だ。不本意すぎてなにから否定していいのかわからない。
とりあえず、正確に言えば一切言葉のやりとりをしてないわけじゃない、とだけ言っておこうか。お嬢サマをエスコートしに行く通りざま、「ああ、そこにいたのか。小さくて気づかなかった」って言われたからな! は? いやお前気づかなかったわけないし。おれよりまだだいぶお嬢サマのが背小さいから!
……と、そんな悪態は心に留めて顔にしか出さなかったから、確かに会話はしてなかった。だって言い返して相手すんのめんどくさい。おれの学院でのあいつへの応対、基本的にそれだったし。たまにはやり返したけど。やられるばっかの腰抜けじゃないって牽制に。
どんな伝言ゲームの末にそんな正反対な伝達がされたのか……そもそもこのおっさん、アレの護衛ってことは公爵家に出入りしてるんだろ? 耳に入らないもんなんだろうか、自分ちのとこの公爵家のお坊ちゃんが権力振りかざして、同級生を陥れたなんて話。そんなの些事すぎて噂にすら上らなかったのか。だとしたら黒すぎる、シュタイン……なんたら公爵家。
とにかく、なにから否定するべきか。それとももうこの話題をぶった切るべきだろうか。訂正したいような、どうでもいいような。
あー……と思いながらおっさんを見上げた、その背景に。見覚えのある長い金色の尻尾がなびいていった。気がした。瞬間、おれは椅子を蹴倒す勢いで立ち上がっていた。
間違いない。
さっきのあれは、『そう』だった。おれの視界の隅をかすめていったはずの尻尾髪。それを見つけ出そうと噴水広場から大通り、路地に抜ける道までに目を凝らし、首を巡らせる。
どこに行った。まだ遠くには行ってないはず。今から探せばきっとまだ追いつける――
「また会ったな、少年!」
なんていうか、もう、横からボディーブロウかまされてふっとばされた気分だった。実際、膝から一気に力抜けた。でもってそのままへちゃっとテーブルに突っ伏した。やだ……今声かけてきたやつに会いたくない……マジやだ……ずかずかと図々しい気配がめっちゃ近づいてくるカンジする。やだ……。
というか、無理だ。さっきの、探して追いつこうなんて思った自分の浅慮が。それをすればお嬢サマを一人ほっぽり出すことになる。職務放棄。一時の考え、いや考えですらない感情だ。
あの声がなかったら、おれはきっとなにも考えずに本人かどうかもわからない、いや高確率で別人だったろう他人を探して飛び出していたかもしれない。そんな馬鹿な行動を止めてくれたと思えば感謝するべきなのか? おれは。いや、でもやなもんはやだ。そこは揺るぎない。
さっきからのおれの一連の行動、おっさんからすればさぞ変なやつに見えてるだろうな、とかいう逃避思考が頭をよぎったのもまた嫌だった。これ、自己嫌悪を周囲にばらまいてるだけだって、わかって。
「聞こえなかったふりしてもいるもんはいるからな! 諦めろ!」
塞いだてのひら越しに耳を打った豪快な声は、さっきと違って聞き慣れた声だった。
でかくて厚みのある手が容赦なくばしんとおれの背を叩く。背骨折る気かアイザック、この馬鹿力野郎。
「……新人が白昼堂々サボってる」
「いや、今日非番だし。昨日話したし! あ、ちょっと邪魔しまっすー」 首を軽く竦めるだけっていう、学生なら許されても一歩社会に出たらたぶん、ナメてんのかこいつって青筋立てられても仕方ない(おれもついするけど)形だけの会釈にも、おっさんは鷹揚だ。心が広すぎる。ていうかさっきまで丁寧語にすらなってなかったおれとも普通に会話してくれてたしな。そもそもあのお坊ちゃんにつき合ってるくらいだからな。心広くないとやってやんないよな……。
「ついさっきなー、買い出ししてたらあの二人に出くわして捕まって案内させられてたとこ」
アイザックが肩越しに親指で示した「あの二人」。言わずもがな、昨日遭遇した――というかなし崩しに巻き込んできてくれやがった、空気の読めない姉弟である。噴水広場のベンチに一抱えほどある荷物を置いて手を振ってきた弟。そして、人にばかでかい声をかけておきながらもう興味が逸れたのか、同じ広場の真ん中に堂々と鎮座する台座上の銅像へ熱心な視線をやっている姉。自由だな!
というかあの二人。昨日どっかの家を訪ねる予定が〜とか言ってなかったっけか。
「……なんでまだこんなとこふらふらしてんの」
「まだっていうか、もうっていうか。とっくに門前払い食らったからっていうか」
「ああ。もう、ね」
なんだ、昨日の宣言は既に実行済みだったのか。エルディアード侯爵邸への当たって砕けろ特攻という名の訪問は。まぁ、うん。簡単に話通る相手じゃないもんな。おれもそれ体験してる。それに今、家人総不在だし。お嬢サマここにいるし、侯爵子息サマもジョエル連れて出かけてるし、おれが未だに会ったことのない当主サマと奥さんも出払って、士官学校の寮にいる子息サマ二人も帰ってくる気配がない。そんな状況で、一時責任預かりでしかないハラルドが予定にない訪問者を相手にするかっていったら……しないだろうな。門前払いってことは、中に話すら通してもらえないで追い払われたってことだろ、そもそも。
なんていうか……この姉弟の行き当たりばったり具合とその結果を目の当たりにすると、いや又聞きしただけなんだけど、こんな見通しの甘い行動する大人にはなりたくないな、とかいう思いがじんわり滲む。なんか哀れなものを見る目で二人を見てたアイザックも同じことを思ってたかもしれない。だからなのか、アイザックの口からおもむろに「お前、口利きしてやったら?」なんて提案が飛び出てきたのは。
「やだよ」
「うわ即答」
「即答もするし。なんでちょっと知り合っただけの人間にそんな世話焼いてやんないといけないわけ」
「夕飯奢ってもらった礼?」
「あれはおれが被った迷惑料であっちから相殺してきたの」
「あぁそうだっけか」
「トリ頭」
「俺の頭は筋肉なんじゃ?」
「自分で言うのそれ」
アイザック、訂正するにしてもひどい下方修正だ。
再び広場に目を向ける。紙片に指をなぞらせて何やら確認してる様子の弟を放って、まだ珍しげに銅像を見上げ、台座をぺたぺた触ってる姉。頼りにならない上を持った下はこうなる、を絵に描いたような姉弟図である。
もっとも、弟の方もただの苦労人性質だけだとは言えないんだけども。この姉あってこの弟、そんな部分が垣間見える部分があるせいで安心できないというかなんというか。
というか、そもそもあの二人はなにをしたくてエルディアード侯爵邸に突撃したんだろうか……。竜を探してるっていうとんでもな目的は聞いた。それとエルディアード家になんの関係が。領地内の立ち入り禁止区域探索許可とか? もし目通り叶ってそれ聞かされた侯爵子息サマの反応が気にならなくもない。侯爵子息サマ、絶対笑う。面白がって自分も行きたいとか言い出しそうな可能性もなきにしもあらず。さすがにないか? ジョエルが脳天に書類束の角を落として止めるところまで想像ついた。ものすごい鮮明に。
「昨日はさ、食うのに集中してたから適当に『おー頑張って』で終わらせただろ? で、さっきちょっとつついて当てとかないのかって聞いてみたらさー、なんかさぁ、先触れに手紙出したとか言ってんの。誰にってのにはすげぇ不自然にはぐらかされたけどな」
「なにそれ。だったら門前払いされるのおかしいじゃん」
「それな。一方通行の知り合いってだけなんじゃねって俺も思う。ねーちゃんの方絶対思いこみ激しそうだし。覚えもないやつに手紙でこれから行くんでよろしくーされても、そりゃポイするだろ」
「むしろ心象悪い」
「な。っていうかコレさ、前から一度でいいからすっごい食ってみたかったんだけどさ!」
一気にがらりとテンションを上げたアイザックの腕が、にゅっとおれの目の前、焼き菓子の入った籠に伸びた。図体でかいくせに俊敏さまで持ちやがって羨ましい。
真面目に話してたと思ったら……さっきからちらっちら見てたの知ってたから、いつか手を伸ばしてくるだろうなとはわかってた。だから止める気もなかった……んだけど。籠の中に残ったその数を見て、おれは自分の眉間が一瞬で狭まるのを感じた。
「やばいコレ超美味い」
「おい。半分。一口で。出せ。今すぐ、口から」
「無理! お上品な俺には口から出すとかそんなお下品なことできません!」
「食いながら喋ってる時点で上品さとか欠片も感じられねぇしそもそもお前にそんなもんないし」
「いいじゃん別にぃお前が金出したわけでもないくせに。え、それともなに、これ自腹? マジ?」
「まさか」
「じゃいいじゃんな。幸福は友と分かち合ってこそ! それこそが真の幸福、素晴らしき友情! そう思わないかね、んん?」
「じゃあ友人とやら。貸してた金。さっさと返して。負担がおれに偏ってる現実なんとかして」
「初任給入ったら返すって言った! お前ホントにアレ、アレだよ。あー、ほら、アレ! そう! 心狭い!」
心狭いの単語が出てくるまでにどんだけかかってんだこの脳筋。あぁもう……一気に五枚まとめて口に放り込むとかマジもったいない! 味ホントにわかってんのかお前!
高級焼き菓子を音を立ててぼりぼり粉砕するアイザックの、餓えた猛禽の目がおれが抱え込んだ籠を狙っている。これ以上奪われてなるものか。残り二枚を仲良く一枚ずつ分け合うって? そんな選択肢あるわけない。
背中強打の挨拶に始まり、この狭小な攻防に口を出さず静観していたおっさんが、とうとう堪えきれないという風に漏れた笑いを噛み殺そうとして変な声を出した。そうなればもう隠す気が失せたらしい。こっちを見ながらくっくっと喉を鳴らして肩を痙攣させている。そしてアイザックはそんなおっさんを露ほども気にしない。ついでに言えば、さりげなくおっさんと似たりよったりな反応を見せてるお嬢サマと、目を据わらせてすっごい顔してる坊ちゃんも気にしてない。おいお前、ウェイン。その顔お嬢サマに向けてやってみろ。幻滅されるから。されちまえ。
「つかお前こんなとこでなに優雅にお茶してんだよ。似合わね……って、あ"あぁ!」
不本意ながら残った焼き菓子をいっぺんに口に放り込み、これ見よがしに顎を動かしてやった。得物を逃したアイザックは途端に憮然顔だ。口の中のもの全てを飲み下してしまってから、ついと視線をお嬢サマに流し、仕事中、とだけ答えた。
アイザックはそこで初めてお嬢サマの素性に気づいたらしかった。細かいことを気にしないせいで察しは悪いけど、連想力はそれなりにある。あと野生の勘。ある程度ヒントがあればちゃんと状況把握ができるやつだ。まぁ……察しただろと思ってたら見当はずれもいいとこな解釈されてたことも少なくないんだけどな。今はそんなことはない、と、信じたい。
無視を決め込んだウェイン坊ちゃんと、こっちをちらちら気にしてるお嬢サマ、そしておれとおっさん、細かい粉だけを残して空になった焼き菓子の籠。
それらを順繰りに見回したアイザックが、おお、と合点のいった顔で高らかに声をあげた。
「なるほど。お前はお嬢様とのデート邪魔されて、狭い心さらに狭くしてたわけだな!」
「……その口閉じた状態で熱接合したら静かになるかな」
「それだったらこないだの、針糸で縫い閉じる案のがマシだな! ほどけばまだ元に戻れる余地がある!」
お嬢サマが堪えきれない笑いを隠そうと下を向き、口元を押さえた。おっさんはもうさっきから隠すつもりもなく完全に笑いに入ってる。こっちに背を向けたウェインの肩が小刻みに震えてるのは……うん、あれは笑ってるわけじゃないな。よっぽどの楽天家でない限り誰でもわかるな。だってあそこだけ空気の温度がやたらに低い。色がついて見えるくらいわかりやすい。
「いい加減にしろよ貴様等…………っ」
そんなわけで、震えた声が氷点下の白さを伴って地を這った次第である。