空の茜が藍に侵食されてゆく。
 目では捉えられないほどにゆっくりと、だが確実に。

 森は、薄闇に沈みかけていた。
 どこかから聞こえてくる、ふくろうのほぅ、ほぅという断続的な声。風に揺られた木々が、低く唸るような音を立ててざわめいた。
 その中で、ぱきりと細く高い音があがる。

「ひあっ」

 間発おかずに情けない声をあげたのは、ひとりの少年だった。
 縮こまっておどおどと辺りを見回し、最後に足元に視線を落とすと――

「な、なんだ、おどかすなよなっ」

 靴の下に、真ん中から二つに折れた小枝。
 少年は悪態をつくと硬直させていた体から力を抜いて、また歩き出す。その足取りは重い。思わず漏れたため息と同調するかのように、腹の虫が抗議の声をあげた。

「…………腹へった……」

 朝飯はパンと豆スープ。昼は姉の作りかけの野菜シチューをかきこんだ。ほとんど飲み込むように食べたせいで、嫌いなニンジンの味もわからなかった。夕飯までには当然帰るつもりでいたから、間食がわりに持ってきたパンはすでに少年の腹の中だ。なにか食べられそうなものを探そうにも、暗くてよく見えない。こうなる前に探しておくんだった――後悔するが今さらだ。

 初めて来る森ではない。
 森を抱える村に生まれ育った少年にとって、勝手知ったる庭のつもりだった。幼い頃から友達と連れ立って毎日のように遊んでいたのだ。わからないことなんかなにもないはずだった。

 ――そのはずだったのに。

 今はもう、自分がどの方向から来たのかわからない。村の方へ向かっているのか、それとも遠ざかっているのかすらわからない。
 当然だ。少年たちが知っているのはほんの入口でしかなかった。
 この森の広さの全容を知っている者は、村の大人の中にも一人だっていないのだ。

「どうしよう…………」

 少年は鼻の奥でつんとするものを必死にこらえながら、歩き続ける。




 帰らずの森――恐れを込めてそう名づけられ、入ることを禁じられた森の中を。




森の魔法使い 1






『わたしのばあちゃんの若い頃には、帰らずの森の奥に魔法使いがいたそうでねぇ。村の衆だけじゃあどうにもならないことが起こると、魔法使いに頼んでいたんだそうだよ。ああ、その頃はまだ、あの森は帰らずの森なんて呼ばれていなかったらしくてね。簡単に魔法使いの家まで行くことができたのさ。今じゃあ誰も、入ることはできても出ることはできなくなったけれどね』
『どうして? どうして入れなくなっちゃったの?』
『魔法使いはねぇ、村の娘と恋に落ちたのさ。でもその娘の親は結婚なんて許さなかった。いくら魔法使いが村の恩人でも、素性の知れないよそ者には変わりはないからね』
『へー……それで?』
『あんたにこういう話はまだ早いかねぇ』
『そうよ、ディックはまだお子さまだから、こういう話はわからないのよ』
『なんだよ! そういうねーちゃんだって子どもじゃん!』
『私はお姉ちゃんだもん。ディックよりずーっと大人なの』
『おやめ。そんなに大きな声で騒いだらエイルが起きてしまうよ』
『ね、おばあちゃん。静かにするから続き、話して。それで魔法使いはどうしたの?』
『魔法使いはね、娘に言ったのさ。ぼくたちは会うべきじゃなかった。どうか忘れてほしい、とね。そうして村には二度と現れなくなった。そのあと娘が魔法使いに会いに行こうとしても、今まで簡単に行けたはずの魔法使いの家にはどうしても辿り着けない。それどころか、一度森に入ると方向感覚が狂ってしまうようになった。いつしか、入ったものは誰も帰ってこられなくなる魔の森になってしまったんだよ』

 魔法使いは今でも生きているんだよ。なんでかって? 魔法使いだからさ。
 そうして今も娘を想っているんだよ。
 確かめた者はいないけれどね。







 村に医者はいない。昨夜、突然倒れた母の熱は上がるばかりで、額に冷やした布を当てるくらいしかできることはない。

 父親は隣町の医者を呼ぶほどの金もない、呼べたとしても間に合わないと悲嘆に暮れるばかり。気丈にふるまって母の代わりに家を取り仕切り、看病している姉も、台所の片づけをしながら、一人で泣いていたのをディックは知っている。泣きはらして赤くなった目の弟に訊かれた。『母さん、死なないよね?』と。そんなことはディックだって知りたかった。

 村の大人たちは、突然の母の病気が疫病ではないかと疑いディックたちにすら近づこうとしない。母が熱を出した後、何人かの村人が同じように倒れたのだ。
 唯一母の様子を診てくれた村にただ一人の産婆は、できることはないと言った。

 そのときディックは、ふと今はもういない祖母の話を思い出したのだ。

 ディックは祖母が暖炉の前で語ってくれた魔法使いの話を信じていたわけではない。
 でも。縋らずにはいられなかった。それ以外に縋るものがなかった。

 少年の手に今でも残る、母の異様な熱。
 それを思い出し、ディックは握った手に力を込めた。

 ――魔法使いなら、母さんを助けてくれる。だって魔法使いなんだから!

 ディックはその一心で、姉の制止も聞かず、いるとも知れない魔法使いを求めて帰らずの森に飛び込んだ。
 それがどれほど向こう見ずな行動か考えもせずに。




 いつの間にか涙がじわりと滲んでいたことに気づいたディックは、服の袖で乱暴に顔をこすった。

 ――泣いてる場合じゃない。泣いたって、母さんが助かるわけじゃない。

「はやく魔法使いを見つけるんだ、それで、母さんをなおしてもらうんだ!」
 おれにしかできないんだから――その思いだけが、疲れ切ったディックの足を先に進ませていた。


「――」


 人の声が聞こえた気がして、ディックは立ち止まった。確かめようと耳を澄ます。が、風に騒ぐ木々のざわめきが掠めるだけだ。

「だれかいるの……っ――?」

 人がいるかもしれない、それが喜びとして湧きおこるまえにディックの頭が平衡感覚を失った。ぐらりと上体が傾ぎ、膝から崩れ落ちる。
 猛烈な眠気と脱力感。それが一気にディックの中に流れ込み、意識を押しのけようとしている。

 ――だめだ、ここで寝たら……!

 自分の体に突然起こった現象に疑問を抱く暇すらなく、ディックの意識はぐるぐると回りながら遠のき――
 そして視界が闇に覆われた。







 姉ちゃんとエイルが朝っぱらから喧嘩している。
 どうせ理由は靴下に穴が開いただの、縫ってあげるから今日は我慢しなさいだのっていうつまんないことなんだろう。巻き込まれたくない。もうちょっと寝ていよう。

 今日はなんだか変わった匂いがする。青臭い匂いと、甘ったるい匂いが混ざって気持ち悪い。
 また変なものを食べさせられるのかと思うとうんざりだ。姉ちゃんのご飯はもうこりごり。味は薄すぎるし、余計な調味料を入れるせいで変な匂いがするし。文句を言ったら、じゃあ食べなくていいって本気で取り上げられた。……横暴だ。
 いいかげんに、母さんのご飯が食べたいよ。

 ……あれ?
 なんで、姉ちゃんがご飯作ってるんだっけ……?

 ああ、そうか母さんが。







「母さんっ!」

 そう叫びながらディックは勢いよく飛び起き、首を傾げた。

 ――おれ、森の中で寝ちゃったんじゃなかったっけ…………?

 最後の記憶と、知らない部屋の知らないベッドの中にいる自分とがどうしても噛み合わず、ディックは起きぬけの回らない頭を必死で働かせようとする。

 そこへ、ずりおちた毛布を拾う、手。

「ふふ。母さん、なんて呼ばれるなんてねぇ」

 そこにいたのは女だった。
 穏やかな声と柔和な笑顔。ディックの中に一瞬湧いた警戒心は、それだけで霧散する。

「おはよう?」
「お……はよう、ござい、ます?」
「はい。おはようございます」

 どこか反射的に挨拶を返し返されたところで、まだ夢の世界に片足を突っ込んでいたディックの意識が一気に覚醒した。
 彼は女を無言で凝視し――


「……めちゃくちゃきれーなおねーさん…………」


 思わずぼそりと呟いた言葉に女は少しの動揺も見せない。
 そして、拾い上げた毛布を折りたたみながら目を細め。


「あらありがとう。でも忠告してあげる、少年。素直なのは結構だけれど、これからそういう殺し文句は心の声に留めなさいな」


 それはそれは綺麗に笑った。




   2009.5.29  (改訂)2010.2.15