腹の虫が切ない叫びをあげた。
体は欲求に正直だ。ほんのりと頬を染めてそっぽを向く少年も、同じく。
「こっちにいらっしゃいな。今は運よく食べ物にあふれているから」
その様子を揶揄することはなく、しかしくすりと笑みを濃くした女は、そう言ってディックを部屋の外へと誘った。
森の魔法使い 2
「……ねぇ」
広めのダイニングに通されテーブルについたディックは、その上に並べられたものを見て顔をひきつかせた。
――なんだこの非常識なメニュー。
「うん? なにかな少年」
「今って…………朝、だよね?」
「そうねぇ。紛うかたなく朝でしょうね。朝ごはんには最適な時間ではない?」
「いやいやいやいや、そうじゃなくてさぁっ」
木枠の窓から差し込む陽光。小鳥のちゅんちゅんという囀り。立派な朝だと認める要素は十分だ。十分なのだが。
5、6人は座れそうなテーブルの上に所狭しと並べられた皿の上の物体は、果たして朝ごはんにふさわしいとはいえない――ディックは心から信じられる。
「なんで……お菓子しかないわけ…………?」
それは、どこからどう見てもお菓子。
いろんな種類の焼き菓子にはじまり、ふんわりとした黄色い丸い菓子、色とりどりの果物が乗せられクリームに彩られたケーキ……とにかく、さまざまなお菓子がこれでもかと並べられている。そして当たり前のように茶色い液体で満たされたティーカップが。
今日はこれから祭りかなにかがあるのかと、ディックが本気で疑問に思うくらいに大量。夢の中にまで出てきた甘い匂いの正体はこれか。
「なんでって。好きだから? あ、お菓子しかないわけじゃないわよ。ほらお茶も」
「……だ……っ、か、らぁ…………っ。それは確かにそうだけどっ、そうじゃなくってっ!」
「そうじゃなくて?」
会話が進まないとはなにごとか。
もうすぐ10歳になろうという子どもがコミュニケーションの難しさに悶絶するほど、この女には会話能力が備わっていない。いや、備わっていないというよりは、面白がってわざと会話をしようとしていない。
もちろんそんなこと、ディックには気づきようもないが。
結果、ディックは「朝っぱらからケーキを食うのはこの人にとっては普通なんだ。そうだ。普通なんだよ」と無理やり自分を納得させることで追及を諦め、フォークを取った。
「お姉さん、変」
「あぁ……それはよく言われるわー」
じとっとした目を武器にした、せめてもの反撃さえするりとかわされたディックにはもう打つ手はない。
一を言ったら十返ってくる姉とは違う。一を言って返ってくるのは一程度だが、その一がディックの想定外のさらに斜め上をいっていて、非常に言い返しにくいのだ。つまり会話を続けさせにくい。
女には口では勝てないのだ。
姉で十分わかっていたつもりだったが、甘かった。
とりあえずディックは一番近くにあって目についた、赤い実とソースも鮮やかなラズベリーのタルトを傍に寄せ、おそるおそるフォークをいれ――ほおばった。
「…………」
女はそのまま固まったディックを横目に、クッキーの皿に手を伸ばしている。
「……………………うっま……」
心なし赤く染まった頬。目元も潤んで見える。
彼の村ではお菓子など贅沢品である。
そもそも砂糖が贅沢品なので、収穫祭の時にだって糖蜜で飾られたナッツのパンが出される程度。それとは別に村長の家からクッキーが出される……が、手を出しにくい。それをしっかりわかっている村長の妻や娘が「食べていいのよ」と渡してくれるので食べたことはあった。さくさくとした不思議な食感と口の中でほどける甘さに、なんともいえない幸福感でいっぱいになったものだ。
今、ディックの眼前に並べられた菓子たちはどれも目に美味しく、味も絶品だった。
しかしここまで大量に、しかも豊富に種類があると圧倒される。なによりありがたみが薄い。このテーブルの中のクッキーは完全に脇役。
幸福感を感じている暇もなくディックは次々と菓子を攻略していった。
「ねぇ、もしかしてお姉さん……医者?」
腹が満たされたことで当初の目的を思い出す余裕を取り戻したディックは、皿の上の最後の一口を片づけてから切りだした。
この女が医者なら魔法使いなどを頼る必要がなくなる。
そもそも医者に頼れなかったから、ディックは魔法使いを探そうと思い立ったのだ。
部屋中に吊り下げられた乾いた草――最初に目を覚ました時に感じた青臭さの元だろう。
母の様子を見てほしいと頼みに行った時にちらと見た産婆の家にも、これほどまでではないが、おそらくは薬草と思われる乾いた草が吊り下げられていた。
ディックが女を医者と推察したのは、そんな理由。
「あぁ。期待されているところ悪いのだけれど、医者じゃないのよ」
からりと笑いとばして菓子に意識を向ける女に、ディックは少なからず落胆した。
確かに医者には見えない。期待も薄い。藁にすがる思いだった感は否めない……のだが。
「でも医者が入り用ならお役にたてるかな」
「…………ぇ?」
「私の生業は薬師といってね、薬をつくるのが仕事なの。医者のいないところでは医者の真似ごとをすることもあるのよ」
途端ディックは耳を疑う――暇もなく、勢いよく椅子を後ろに倒して食ってかかった。
「母さんが病気なんですっ! ここへは魔法使いを探して頼みに来たんですけど結局見つからなくて気づいたらここに……って、助けてくれたのもお姉さんですよね?! ありがとうございますお願いします母さんを治してください!! お礼は必ずおれの分もしますから今はとにかくお願いします何でもします! だから早くしないと母さんが!!」
「うん。おちつこう少年」
至近距離で息つく暇なく並べ立てる少年を、女は焦りの色も見せずにたしなめた。
「でも母さんをっ!」
「はいはいはい、わかったから。はいこれ飲んでおちついて」
ディックは渡されたグラスの水を一気に呷り、息をついた。確かにそれで落ちついた。
「なるほど。それで『母さん』」
そう言って跳ね起きたディックを揶揄したつもりは女にはなかっただろう。しかしディックは教師に向かってつい『母さん』と言ってしまったような気恥しさを覚え、赤面した。
「…………で、なんでそこで魔法使い?」
知らない者にしてみればもっともな、しかし今の話で引っかかるのはそこなのかと疑問を抱く問いだったが、ディックは村に伝わる魔法使いの話を言って聞かせた。
話が進むに従って神妙な顔になりつつあった女は――はあ、と乾いた息をそのまま声にして。
「ふむ。じゃあきみはそんな根も葉もない噂、というかもはや伝説的なヨタ話を信じて迷子になって行き倒れたと」
「へ?」
「だいたい100年前に魔法使いがこの小屋に住んでいたからって、今もいると考えるのは早計に過ぎるわよね」
言われてみれば、いや言われなくてももっともな正論にディックは萎縮して肩身を狭めながらも、疑問が芽生える。
――おれ、魔法使いがこの小屋に住んでたなんて言ってない……てか、住んでたの?
「まぁ少年の勇気……というか無謀を買って、きみのお母さんを診ることは診るけれど」
「ほんとっ」
消化されない疑問は口に出す前に歓喜に潰され、完全にディックの中から飛んで消えた。
「その前に、ひとつ。言っておこうかな。医者が診たとしても私が診たとしても、なにもできないことがある。行ったところで手遅れのこともある。助からないときは、なにをしても助からない」
ディックは喉を鳴らして、女の言葉を空気と一緒に呑みこんだ。
それはつまり母さんが助からないかもしれないから覚悟しておけ、と。
「力不足で手立てもわからずに死なせてしまうことだってある。それを言い訳にするつもりはないし、仕方ないから納得しろというわけでもない。そういうこともある……それが現実」
女は徐々にうなだれてしまった少年の、短いこげ茶色の頭にふわと触れて。
「少年。きみにはわかっておいてもらいたいかな」
ぼたぼたと音をたて、滴が木の床に飲み込まれて染みをつくる。
だが、それもきっとすぐに消える。『泣いたって母さんが助かるわけじゃない』ことを、彼はちゃんとわかっているから。
「少年、名前は?」
今さらの質問に、ディックは嗚咽を懸命に堪えて。
「……ぅっ……ディッ、ク」
「そう、ディック」
顔をあげなさいというやわらかな声に、ディックは従った。袖で乱暴に顔を拭って顔を上げる。
「それじゃあ取引をしましょうか。私は薬師としてきみのお母さんにできる限りのことをする。私がお母さんを助けることができたら、きみは私の願いをひとつ叶える。どうかな?」
「それでいい!」
少しの間も置かず。
「いい返事ね。それにしても、私の願いがなんなのか聞かなくてもよかったの?」
「おれ、母さんが助かるならなんだってするって言ったもん」
「……そう」
女は、今度ははっきりと満足そうに破顔した。そこでディックは、あ、と気づく。
(紫色……)
見たことのない瞳の色。不思議な色。
不気味だとか異物だとかそんな考えが浮かぶことはなく、ディックはただ、綺麗だと思った。
「よし契約完了。ああそうだ、私の名前をまだ言っていなかったわね」
ぐりぐりとディックの頭をさっきより強く撫でながら、女は続ける。
「私はリィン」
指が、首を飾るチョーカーに光る淡い緑色の石に伸びる。
感触を確かめるように、そっとなぞりながら。
「リィン・ヴァロアというの」
そう名を告げた女の表情は誇らしげで――同時に、どこか寂しそうでもあった。