「じゃあ準備してくるから。少年、そこにあるもの適当に食べていていいからね」
簡単に母親の病状を訊いたリィンが席を立った。
続き部屋に消えようとする背中に、予想外の言葉が投げられる。
「ねーお姉さん。残ってるの、持って帰っていい?」
ゆっくりと振り返った先に、しれっとした顔の少年。
「………………いいけど、ね?」
「だってこれお姉さん一人じゃ食べきれないよね? なんか日持ちしなさそうだし、もったいないじゃん」
言われなくてもとばかりに次の菓子に手をつけながら、ディックはなんの悪びれもなく言い放った。
「なかなか切り替えの早い性格しているのね。しかも厚かましい」
「厚かましいってなにー」
「……先生にでも教えてもらいなさい」
先ほどまで泣きじゃくっていた子どもとは思えない態度に、リィンは呆れ半分感心半分に生ぬるく笑い――今度こそ、その場を後にした。
森の魔法使い 3
「リィン様ぁ」
薬の保管部屋に足を踏み入れたリィンを迎えたのは、間延びした、男にしては丸みを帯びた声。
薬草棚に寄りかかってあぐらをかいている青年がひとり、そこにいた。普段はどこかぽやんとした柔和な印象を与える顔つきなのだが、今はあいにく不機嫌そうに歪んでいる。
「あれってちょーっと甘やかしすぎじゃないですー?」
リィンが意外そうに瞬きをひとつして首を傾げた。
「そんな甘やかしてたかしら、私」
「甘いですよぅ。ぼくらが戻ってきてなかったら、あの子ども間違いなくだれにも見つからないで行き倒れてますよー? そこんところちゃんと言っておくべきだったと思います」
「そのへんのお説教は親の方が適任かと思って」
リィンが説教を最小限に留めたのにはそんな目論見があってのことだった。
ディックには母親を助けたいという一心しかなく、彼を心配する家族の心情など考えてもいないようだった。なら、その家族に委ねるべきだ。
「悪い子にお灸をすえるのは、保護責任者の義務だしね?」
他人からの客観的な説教も時には必要。だが、家族の涙交じりの説教には到底勝てないだろうと。
もちろんそれだけでは足りないと感じた場合、説教とお灸の追撃を加える気満々ではあった。
「ふぅん……それならいいですけどー……」
「それはそうと、準備してくれていたのね。ありがとう」
まだ不服そうではあったが、とりあえずは納得したらしい。
「行くんでしょー? あの子どもの村……ラムロットでしたっけ」
「ええ」
「だったら早く用事すませてほしいなー……って」
見事なまでに真っ赤な紅玉の瞳が、捨てられた犬のように頼りなさげにリィンを見つめる。
へそを曲げて唇を尖らせる仕草はディックよりもよほど子ども子どもしていて、リィンは思わず頭を撫でてしまいたい衝動を抑えた。まだ、早い。
「うん。立派な心がけ。じゃあその手を離してみようか?」
「……やですうぅ」
ぷいっとあさっての方を向いたセレンは、件の鞄をしっかりと抱えこんだ。
二十代中盤の外見をしていながら実に大人げないことだ。
「それじゃあ――っと。セレン、あなたは一体どうしたいのかな?」
その隣にしゃがみこみ、駄々をこねる子どもをあやすような声色でリィンは問いかけた。
「…………心配なんですってば」
不満そうにぶすくれて唇を突き出したまま、セレンと呼ばれた青年がぽつりと話し始める。
「リィン様、ここに戻ってきたときに言いましたよねぇ? 当分ここに腰を落ちつけて、回復に専念しようって言いましたよね?」
「言ったわね」
「それなのに、言った本人が率先して破ろうとするって、それどういうことですー?」
「……もしかして怒ってる?」
「もしかしなくても怒ってますぅ! ちょっとリィン様わかってます? あれ、ふつーの人間だったらあっさりお亡くなりになるような怪我だったんですからねっ」
「あーはいはい。私ふつーじゃないからだいじょうぶだいじょうぶ」
「そーでしょーともねー! そう言われることくらい予想済みですよっ。だから」
絶対に譲るものかと意志も顕わに、宣言する。
「ぼく一緒に行きますからね」
じとりと湿っぽい、いっそ粘着ともいってもよいくらいの視線と声をもって。
「あ、そっちの心配」
「そーですよ。主にそっちですよ」
「……私、そんなに信用ない?」
「ないです。あると思われてたのが不思議なくらいにないです」
セレンはきっぱりと言い切った。
信頼はしてますけどそこらへんの信用はしてないです、と。
「一応療養中の自覚はあるのよ?」
「自覚なしにされるよりタチ悪いですよぅっ! そんな状態で気の向くままふらふらどっか行かれたら、ぼく泣いちゃいますぅーっ」
「しないってば」
「……その言葉が信用できないって……言ってるんですってば…………」
鞄を抱え込んだままへなへなと脱力したセレンの頭にぽふりと手を沈め、リィンは無言で白いふわふわの髪をかきまぜた。
「私としては、ファルがこっそり動いたりしないよう見張っていてほしかったのだけれど」
「ぼくとしてはですね、リィン様を見張る方がファルくんより必要性高いと思うんですー……」
抱えた鞄に頭を埋めるようにしてうずくまっているため、声はくぐもっていて聞き取りづらい。しかしその中に弱々しさを感じ取り、リィンは気遣わしげに問う。
「……大丈夫?」
「だいじょぶですよー?」
なにがという主語を欠いた問いかけだったが、セレンにはそれで十分通じたようだった。
「…………行かなくてすむなら行きたくないんですけどねー……さすがに時間経ってますし。忘れられてることを期待して」
「期待を早々に打ち砕くようで心苦しいわね」
「なんですかそのいやぁな切り出し方」
「なんだか変な方向に捻じ曲がって、伝わっちゃっているみたい。自分から言い出しさえしなければまったく問題ない程度だけれど……どんな話になっているか、聞きたい?」
「……ぼくの前でその話したら泣きますからねぇっ」
もうすでに涙すら滲ませて、セレンは悲痛な声をあげて再びうずくまった。
セレンの用意してくれてあった鞄に足りない必要物を放りこみ、後から追いかけるというセレンを残して居間に戻ったリィンは予想通り、いやそれ以上の行動をしてくれた少年に感嘆した。
なかなか肝の大きい少年だ。
勝手にひとの家の居間を漁って菓子を納めるのに丁度いい箱を見つけ出し、テーブルクロス用の布で包んで持っていく気満々なくらいには。
「少年。きみの辞書に遠慮という言葉はないのかな?」
「だってリィン姉ちゃん、好きにしろって言った」
「好きにしろとは言ったけれど、好き勝手しろとは言ってないわよ。いいけれどね」
「ならいいじゃん」
しれっと口答えをするこの口は、つい半刻前、確かに『お願いします』と泣きべそをかいた口だ。しかも、一度は改められたリィンへの口調は短い時の間にすっかり元に戻り、ついには最初以上に砕けたものになっている。
彼女がそれを咎めることはなかった。ただ、しげしげと興味深く少年を眺めただけで。
「将来大物になるかなぁ……」
「なんか言った?」
「べつにー?」
リィンは壁に掛けてあった服のうち枯れ草色のケープを手にとり、身に纏う。そして一度床に下ろした鞄を肩に掛け直して。
「さて、行きましょうか」
「うん! 急いでよ、早くしないと母さんが」
「はいはいわかってますよ」
布包みを抱えあげた少年に急かされ、リィンは外に通じる木製のドアを開け放った。
森の中にぽつんと存在する小屋が、そこから遠ざかるふたりの背後でかき消える。
思ったよりも足の速いリィンを追いかけるのに気を取られていたディックが、それに気づくことはなかった。