「お待たせしましたぁーリィン様ぁーっ」

 木の影からにゅっと現れた予期せぬ男の登場に、ディックは声もなくびくっととびあがった。それでも抱えた包みから手は離さない。

「なっ、なに、どっから出てきたのこのひとっ! 知り合いっ?!」
「あれぇ? ぼくのことなんにも言ってなかったんですかぁ?」

 ひどいですー、と抗議しながらもその顔は間違いなく嬉しそうで。

「それでこそ脅かし甲斐があるってもんですよねー」

 続いた言葉が、決定的だった。




森の魔法使い 4






「つまり、この人がおれを助けてくれた人?」

 リィンの同居人だという彼が自分の命の恩人だと知り、ディックは反射的に背筋を正した。正したのだ。一度は。

「そーそー。ぼくが見つけなかったら野たれ死んで、いまごろ冷たくなってたかもねー。それとも、もう野犬かなんかのお腹におさまって骨しか残ってなかったかも? 子どものお肉は美味しいからねぇ。よかったね生きてて」

 が、その口から飛び出てくる言葉を聞くに従ってぞわりとしたものが這い上がり――背中は縮んだ。

 確かに事実。事実ではある。
 しかし、そんな末路は免れたとはいえ当事者に、しかも子どもに対してするのは普通憚られるであろう生々しい表現だ。
 それを人懐っこくにこにこにこにこしながら平気で言い連ねた男は、なおも言う。

「だからせいぜい感謝してねー? ほら、ありがとうございました」

 完全に素直に感謝する気をなくしたディックだったが、死ぬところだったと言われて感謝しないわけにはいかない。

「……ありが、と」
「感謝してもし足りないよねー?」
「いい加減になさいセレン」

 首に巻かれた長いマフラーの片端をためらいなく引っ張られ、セレンは蛙の潰れたような声をあげた。容赦がなかった。

「……ひどいですよう。いつもコレ引っ張るんですからぁー」
「だって引っ張りやすいのだもの。されたくないなら外しなさい」
「ぜったいに嫌ですぅーっ! だってこれはぁ」
「はいはい、そうね。そうだったわねー」
「最後まで言わせてくださいよぅっ」

 なおも言い募ろうとするセレンを適当にあしらって、小さなあくびをひとつ。もう相手にする気はないようだ。

「……子どもな大人?」
「あら少年。なかなか的を射たことを言うじゃない」

 そう言って、涙目でいじける「大人」を指さしたディックの背を、ぽんと叩いた。




 そのまま足早に歩き続けて十数分。
 ちょっとした、いや非常に重大な疑問が浮かんで変な汗を背中に感じたディックが問いかけた。

「なあ、リィン姉ちゃん」

 返事がない。
 聞こえない声ではなかったはずなのに。怪訝に思いながら、前を向いて意識を遥か遠い場所にやっているようなリィンの横顔を見上げ、もう一度声をかけると、突然夢から引きもどされたようなきょとんとした目がようやくディックに向けられた。

「……ん? 何かな少年」
「歩きながら寝てたとか、言わないよね?」
「ちょっと考え事をしていたのよ。どうかした?」
「うん。すっげぇ今さらなんだけどさ……道わかんの?」

 ここって帰らずの森だよね?
 ディックが気を失ったのは帰らずの森。リィンの小屋があったのも森の中。つまりよほどのことがない限りここは帰らずの森で、帰らずの森は方向感覚を狂わせ人を迷わせる場所なわけで。

「本当に今さらね」
「……え」

 想像してしまった嫌な予感が現実味を帯び、ディックはおののいた。
 空腹、夕闇、ひとりぼっち、行き倒れ――
 そんな単語がぐるぐると頭の中で回っている。

「そ、そんなことないよねぇっ?!」

 顔を引きつらせても、返ってくるのはさっぱり答えの読めない笑顔だけ。ディックはさあっと全身の血が下がるのを感じた。

「冗談よ」
「あはは。ぼくたちは迷わないから大丈夫だよー」

 ふわふわの白髪とマフラーをなびかせて前を行くセレンのフォローも被さる。さすがに悪いと思ったのだろう。

「私たちは道も分からないのに闇雲に突っ込むような向こう見ずではないの」
「うぅ……それっておれのこと……?」

 言葉は必要ないとばかりのにこやかな笑顔がふたつ。
 実にいたたまれなかったが、幸いディックの体は動いている。

「わかっているなら自重することね?」
「じちょう?」
「何かをするときには軽々しくやらない、ということ」
「えー、それ無理。だって俺の家の家訓と反対だもん。『思い立ったら即行動』っていうの」
「なるほど。それを毎日唱和することで向こう見ずで厚かましい少年が培養された、と。しかもひと家庭単位で」
「毎日はしてない。年始めだけだよ」
「してるのね……」
「家と言えばさ、何でリィン姉ちゃんたちはあんなとこに住んでんだ? 俺、帰らずの森に住んでる人がいるなんて聞いたことないよ?」

 魔法使い以外は、と少年は付け加える。
 リィンとセレンは顔を見合わせて、ははっと同じように気の抜けた笑いをもらした。

「それこそ今更ねぇ」
「ふつうはまずそこを気にするよねぇー」

 普通という言葉がとてつもなく似合わないセレンにまで馬鹿にしたように笑われて、ディックは頬を膨らませる。

「もういいよっ」

 菓子を詰め込んだ箱の包みを両手いっぱいで抱えた少年はすっかり拗ねて、それからはただ前だけを見据え、歩き続けた。









 ディックが木々の隙間にのぞく見覚えのある景色――一番目立つ集会場の赤い屋根を見つけたのは、森の小屋を出て休憩をはさみながら一時間ほど経った頃だろうか。

「嘘だろ」

 昨晩、自分が迷いに迷って時間を無駄にしていたことはディックにだってわかる。
 でもいくら道を知っているからといって、日があるうちに村に辿りつけるなんて思っていなかった。

「ここからはキミの方がよく知ってるよねぇ?」

 だから案内はここまでだよ。セレンはこれまで見せた意地の悪いものとは一転、柔和に微笑んで、ディックの背を押した。

(言われなくても)

 ディックは走った。
 後ろの二人など気にせず、全力で走った。どうせついてきているに決まっているのだから。

(母さん)

 村の中心の広場を横切る。

 いつも連れ立っている友達がディックを見つけ、ボール投げをやめて声をかけてきたが、構っている余裕などなかった。


(母さん)


 箱の包みを抱える力が強くなる。
 奥歯をぎり、と音を立てた。

 もし間に合わなかったらどうしよう。


『助からない場合は何をしても助からない』


 リィンが表情のない声で告げた言葉。それが今更ながらにディックの心を反芻した。

 家に帰ったとき、もう母さんが――その先の想像なんてしたくない。
 自分は薬師を連れて帰ってきた。魔法使いではないけれど、母さんを治せるかもしれない薬師を連れて帰ってきたのだ。
 リィン姉ちゃんは『できる限りのことをする』と言ってくれた。

 だから自分もできる限りのことをする。
 そして今できるのは、リィン姉ちゃんを家に案内することだ。

 見慣れた自分の家のドアを蹴り破るように開け放ち、そのままの勢いにディックは叫んだ。

「母さんは?!」
「ディック?! あんた、帰って……!」

 突然開いたドアの音と共に帰還したディックを迎えたのは、彼と同じ茶色の目をいっぱいに見開いた4つ年かさの姉――ネリス。

「そんなのいいから! 母さんは!」
「そんなのいいからじゃないわよ、こんっの……馬鹿弟がっ!!」

 言うが早いか、ネリスの拳がディックの頭に直撃した。

「いぃっ……つ……!」
「突然飛び出して帰ってこなくて村中に心配かけて突然帰ってきてその態度はなに! あんたちょっとここに座んなさい! なにしてるの、正座よ正座!」
「は、はいぃっ!」

 ディックは姉の剣幕に完全に圧倒され、言われるがまま正座する。

「だいたいねぇ、あんたは少しは考えて行動するってことを知りなさい! 『思い立ったら即行動』ってのは考えなしに行動しろってことじゃないのよ! 考えついたときに行動を起こさないと後で後悔するから、できるだけ早く行動に移した方がいいっていう教えなのよ!」
「おれはそれを実行したんだよ!」
「うるさい、口答えしない!」

 今度も遠慮なく拳が振り下ろされる。
 きぃ、とゆっくり家の中の扉が開く音がして、思わずディックはそちらを見やる。

「うるさいのはネリス、あんたの方だよ。まったく……」

 頭が痛そうに顔をのぞかせたその人を視認して。




「はぇ……?」




 かきんと音を立てて固まった。







「これってどうやらお役御免?」
「とんだ茶番でしたね?」

 開け放たれたままのドアの向こうから聞こえるセレンの悪びれない笑い声は、ディックの耳には届かなかった。




   2009.6.1  (改訂)2010.2.25