「一日熱」

 脈をとったり目の裏をべろんと返したり問診したりと、自分は薬師で医者ではないと宣言しながらも医者らしい事をしていたリィンが下した診断は、たったの一言。

「おおよそ24時間の高熱が続いた後、面白いくらいにすとんと下がって元通り。通常、大人だったら後遺症もなにもなし」
「……………………なにそれ」
「つまり。昨日の晩に既に下がった熱のために、今の今までディッくんは奔走していたと。穴があったら入りたい?」

 とても楽しそうに振り返ったリィンの提案に、ディックはへたりとしゃがみこみ。


「むしろ掘らせてくださいぃーっ!」


 頭を抱えて絶叫した。




森の魔法使い 5






「まったくすみませんねぇ。とんだ迷惑をおかけしました。うちの馬鹿息子が早とちりしたばかりか、あたしまで診てもらっちゃって。この通り、もうすっかり元気なのに」
「いえ、病気は治り際が一番肝心ですから。熱に体力を相当奪われたはずです。無理は禁物ですよ?」

 リィンが薬師らしく、ディックの母親に養生の必要性をにこやかに説いているその横で。

「うわっなに! すごいこのお菓子! これあなたが持ってきてくれたんですか?! 頂いていいんですか?! ちょっと見てお母さん……て、あ、待っててね、今お茶を用意するから!」
「あーぼくお手伝いしますよぅー?」
「いいわよそんな――」

 後ろから掛かった声に振り向いたネリスの動きが、止まる。

「お、お、お、お客様に手伝ってもらうなんてできません! 座っててくださいねっ」

 ひょこんと手を挙げたセレンを見た瞬間ぽっと赤面したネリスが、今まで嵐のように怒鳴り散らしていたのが嘘のようにぎこちない動作で背を向けた。

「……なにこの状況」

 ディックは目の前で繰り広げられている光景を遠い目を見やって意識を飛ばした。自分でもよくわからない笑いが漏れる。
 普段の家の騒がしさとは違う種類の視覚的な騒がしさ。
 彼が女が三人集まると姦しい(ひとり男も混ざっているが)という言葉を知るのは、まだまだ先のこと。







 ファーナと名乗ったディックの母は、ゆっくり話をしたいからと隣部屋にリィンを案内した。

 奪い合わなくても十分な数があるというのに、一番下の弟エイルも加わった子供たちはお菓子の争奪戦に突入した。
 姉弟の、このイチゴは姉に譲れだの、兄ちゃんが殴ったー、だのという口より先に手が出るのは当り前ルールが作り出す喧噪の中では、とてもではないが落ちついて話ができない。それでも木製の薄い壁を通し、子供たちの様子は容易に手に取れる。その中には当然のようにセレンの間延びした声が混ざっていた。

「それで、その一日熱というのは……うつるものなんでしょうか」
「これは人から人へうつるものではありませんので、大丈夫ですよ」

 それを聞いたファーナは全身に入っていた力を弛緩させ、ほぅっと息をついた。

「よかった……それだけが気がかりだったんです。今はよくても、もし子どもたちにうつっていたらと思うと気が休まらなくて…………でも、だとしたらどうしてでしょう?」
「何がですか?」
「いえね、あたしの他にもいるんですよ。あたしがその一日熱ってのになった後から、何人かがあたしと同じように高い熱を出して、一日経った途端に下がって。てっきりあたしからうつったんじゃないかと思ってたんですけど、違うってことになりますよね」

 何が原因だったんでしょうか。
 答えを探ろうとファーナは神妙な顔で視線を下げる。それをうかがってしばらく思慮したあと、リィンはおもむろに話しだした。

「人間が、だれでも魔力を持っていることは知っていますか?」
「え?」

 予告なく転換された話題に、ファーナは戸惑いと驚愕をもって応えた。

「そうなの?!」

 彼女にとってそれは寝耳に水の言葉。
 予想通りの反応だったのだろう、リィンは微塵も馬鹿にする様子など感じさせずに頷いた。

「ええ。程度の違いはありますが」
「じゃあ……もしかして、だれでも魔法使いになれるってこと?」
「いえ、残念ながらそういうわけじゃないんです。人間が持っている魔力の大小は、個人によってかなり異なるんです。魔術師――あ、魔法使いのことです。正式にはそう呼ぶので。ファーナさんたちが考えているように、魔術師になれるのは本当に一握りの人たちだけ。だれでもなれるわけではありません」
「そ、そうなんですか。そうですよね」

 ファーナは僅かに頬を染めて、薬師の娘の言葉を待った。

「で、それが何に関係するかというと……一日熱は、人が誰でも持っている魔力の性質の一部がちょっと変化してしまうことで起こるんです。その変化は名前の通り一日限り。魔力の性質も熱が引いたときには戻っています」
「……はぁ」
「ちょっとした理由で魔力が少し変になって、それを治すために熱が出る。言ってみれば魔力が風邪を引いたようなものです。うつったりしない分、ある意味で一日熱の方がましかもしれないですよ」

 完全に生返事になった相手を慮った、噛み砕いた説明。それでファーナはなるほど、と納得する。

「ところで。高熱を出した人の中に子どもやご老人は?」
「いえ、みんな働き盛りの者です」
「ならよかった。ああ、子どもは高熱を出すと成長に障害が出ることがありますよね。ご老人は熱に体力を奪われたことが命取りにもなりえるでしょう。そういう意味からです」

 するすると淀みない穏やかな口調は、自分の知識に自信を持っている証。
 それは相手の心に安心感を与える。良い人の代名詞にでもなれそうな柔和な表情もそれに一役買っていたが、その効果を本当に底上げしているのは――彼女の声。

 低くもなく、かといって高すぎるわけでもない。
 聞き取りやすく凛として。不思議なほどに芯の部分に響き、心に深く沁み入る。

 例えるなら、鈴が鳴るような。

 そんな声。

「そんなに若いのに薬師なんて職に就いてらっしゃって、知らないことなんてないみたい。あなた、うちのネリスよりいくつか年上くらいなんでしょう? さぞ一生懸命に勉強したんでしょうねえ。うちの子たちに見習わせたいわ」

 疑問が払拭されたことで本来の性格が出たのだろう。ファーナの話題はすっかり世間話になった。

「幸い、師に恵まれまして」
「そんなに謙遜しなくても。あなたの努力の甲斐でしょうに」

 二人はしばらく世間話に花を咲かせていたが、ややあって躊躇いがちにファーナが切り出した。どうやってそこに話題を持って行こうか思案しての世間話だったのだろう。

「それで……お礼のことなのですけど」
「いえいえお構いなく。私、結局何もしてませんし」
「そんな。あんなに高価なものまで頂いておいて、しかも病気の説明までして頂いたのに。お金でのお礼は申し訳ないけれど……でも何もしないなんて無作法なこと」
「いえ、本当に」
「いいえ。駄目です。何か頼んでくださるまで部屋から出しません」

 さすがにそこは3人の子供を育てた母親である。何ともいえない威圧感は、本当に何か頼まない限りリィンを外に出す気がなさそうだった。
 うーん、と唸るリィンの頭に閃いた『頼み』は。

「それならお願いしたいことが」







 リィンは故意にファーナに言わなかったことが2つある。
 ひとつは言わなかったのではなく、少し言い換えた。

 魔力の性質の一部がちょっと変化してしまう。
 専門家からすれば適切な説明ではない。魔力が毒素に侵されて反応する、そちらが正しい表現だ。

 もうひとつは一日熱の別名について。むしろ一日熱の方が別名で、正式名称を魔曝熱という。




 一日熱に限らず、魔曝熱の認知度はその希少性もあって高くはない。
 魔術研究が進んでいる国や地域であれば、ある程度優秀な医者であれば魔曝熱についての正しい知識を持っている。それ以外は一日熱を知っていればいい方だった。
 しかし知識を持っている医者も、特徴的な熱型で判断しているに過ぎない。判断できる時には既に反応は終わっており、熱そのものによる障害が起こらない限り何ともなくなってしまうのだから、冥利に尽きない、と彼らは言う。

 魔術研究を積極的に行っている国――イヴァン神聖国がそれにあたる。その国には国営の、医療に秀でた魔術師の治療を受けられる施術院がある。
 様々な魔術的な治療や診断を受けることができる場所だが、それでも中心部から遠ざかれば遠ざかるほど、受けられる恩恵が少なくなる。
 世の常ではあるが、魔曝熱が深刻な事態に発展するのはむしろ地方、辺境の方が多いのだから頭の痛い問題だった。




 ともかく、魔曝熱を症状が現われている間に診断できるのは魔術師だけだ。

 人は皆、程度の差はあれど魔力を有している。
 魔術師はその中でも一定以上の魔力と、魔力の流れを感じ、操る術を識る者。
 ゆえに、彼らは魔力の中に入り込んだ魔曝熱を引き起こす毒素を感知することができる。そして魔術をもって魔曝熱を治療することができる。

 が、それも表面的な解決にしかならない。
 本当に解決しなければならない問題は魔曝熱そのものではなく。

 ――ちょっとした理由で魔力が少し変になって。

 そう。
 理由を起こす、原因。




「私は今、自分の失敗に長らく気づかなかったことを……深あく反省しています……」

 鈴の声はだれにも拾われることはなく、風に溶けて消えた。




   2009.6.3  (改訂)2010.2.25