その夜、黒い空の一部が赤に侵食された。
風が低い唸りを上げながら黒煙と共に空に立ち上ってゆく。ばちんと爆ぜる生木の音。火の粉が巻き上げられ、遠くの木の葉にまで降り注ぐ。
その様を私は、どこか他人事のように見ていた。
たいせつな場所なのに。
たいせつな人たちともっとも長く過ごした、たいせつな記憶に彩られた場所が、赤というただひとつに奪われようとしている。
魔力を集めるのはたやすい。それを構成し、発動させるのもたやすい。そう――息をするのと同じくらいに。
それなのに私は動けない。
赤、紅、あか。
あかい景色に重なった幻影がある。
視界のすべてが真紅に染まっている。動かなくなった、生き物だった数多のなにかが倒れて折り重なっている。生温かいぬるりとした飛沫をかぶるように浴びて、なんの感情も映さない瞳で周囲を見つめる自分が立っている。
なにも感じない白紙の心で。
――吐き気がする……!
すぐ傍のセレンの魔力が力となるために組み上げられるのを、頭の片隅で意識していた。
炎が、硬い音を響かせて氷結してゆく。
空気中の水分が空中で集められ、豪雨となって降り注ぐ――
それで確かに赤という色は消えた。
「き、きみ…………魔法使い、だったのか……?!!」
代わりに生まれたのは、ラムロット村の『魔法使い』
森の魔法使い 6
「あー……もう、最低。最悪……っ」
ぶちぶちぼそぼそ。
聞こえてくる言葉はいずれもネガティブで、時折耳を疑いたくなるような罵声まで混じっている。
うつむかれているために前髪に覆い隠され、表情を知ることはできない。が、常のようなやわらかい笑顔でないことだけは確かだろう。笑顔だった方が怖い。
ずんずんと森の奥に踏み入っていくリィンの装いは様変わりしていた。
なんの造作もなく下ろされていただけの蜜色の髪は高い位置で結いあげられ、背中でひとつのしっぽとなっていた。腰が絞められた服の裾は膝上で、歩を進めるたびにふわり、ふわりと揺れている。
彼女はケープと、その下のワンピースを脱ぎ捨てただけでこの装いを完成させた。
ひと言でいえば、活動的。
先ほどまでのいかにも薬師な落ちついた服装も似合ってはいたが、こちらの方がよほど彼女らしかった。
そんな可愛らしささえ感じられる恰好も、完全に雰囲気に打ち消されている。近づきたくないひとの代名詞となったリィンの後ろに続くセレンの笑みも、ぎこちない苦笑いだ。
「…………ねぇセレン」
「……なんですかーリィン様」
「落ち込んでる?」
「落ち込んでますよーすっごく。謝り倒したいですよ、ものすごく。でもそれをしたらリィン様がよけい奈落にずどんと沈んでコワいことになりそうなので自制してますー」
「…………賢明ね」
――それでもやっぱり、連れてくるのではなかった。
セレンの配慮を受けてもそんな考えに辿りついてしまったと、彼女は忸怩たる思いにとらわれた。
小屋に残ってくれていれば、気兼ねなく思考の海に沈めたのに。
セレンがまた、本当はなにも罪ではない罪の意識を感じることもなかったのに。
もしもこうだったら。
そんな、もう起こりえない仮定をあげ連ねることに意味はないというのに。
そうやってリィンが自分を責めるのは、彼女の精神的な問題だけでは決してない。
彼女たちは大きく深い傷を負った。
それを癒すため、この森の小屋にやってきた。
今は小屋で留守番中のファルは特に、命にかかわる程の傷を負っていたのだ。治癒魔術を使えたセレンのおかげで事なきを得たが、もし重傷を負っていたのがセレンの方であったら、セレンの命がどうなっていたかは想像に難くない。彼にしか、治癒魔術は使えないのだから。
彼女自身も軽くはない怪我を負っていた。
セレンは彼女と似たような状態で、自分を後にまわして魔術を使い続けた。
治癒魔術は便利だがその分リスクも高い。
それは、対象の魔力に作用して自己治癒能力を活性化させるものだから。成長期の少年がしばしば成長痛を引き起こすように、急激な体の変化には負担が伴う。
治癒魔術とは自己治癒能力を無理やりに加速させるにすぎない。そのため負担が対象にはね返る。治癒した分の傷や病気の程度に比例して、体力や抵抗力などの身体・感覚機能が一時的に弱体化してしまう。
それを使いに使った反動は大きかった。
傷そのものは快気に向かっているが、思うような動きができず、ともすれば思考まで沈みがちになるのだから。
そこに過去の自分の尻拭いとくれば、暗くなるのも無理はない。
最初に気づいたのは、ディックと共に小屋を出てしばらく経った頃。
彼女の中で、なにかが引っかかった。
なにがおかしいのか探ろうと全身の感覚を研ぎ澄ませ、意識を薄く広く周囲にのばそうとするが、常のようにはいかない。魔力の流れを手に取れないのは苛立たしく、それがさらに漠然とした不安となった。
何度も調整を繰り返し、ようやく意識の底に沈むことができた彼女は、ふたつの大きな魔力を捉えた。
互いが互いを引きよせようとするふたつの魔力。
片方は、あって当然のものだった。しかしもう片方が。
(なんで魔族…………)
その存在に気づいたリィンが抱いたのは苛立ち、次に――殺意。
(このタイミングで私の前に現れてくれるとは、いい度胸、しているじゃないの)
村に近い場所に魔族が住みついているのは危険という常識的考えもあるにはあったが、やつあたりの対象としての認識の方が強かったのだ。このときは。
しかし、ファーナに残っていた魔毒素の残滓に、またも疑問が湧いた。
彼女が捉えた魔族は魔族の中でも低級で、魔曝熱を引き起こせるほどの力をもっているはずがなかった。
魔曝熱の原因のほとんどは魔族によるもの。それも、それなりの力を持った中級魔族に限定される。上級になると、自分の存在を教えているような行為はしなくなるのだ。
なんで、と再び湧いた疑問の答えを見つけるべく再度意識の最深部に潜った彼女は、小屋に張った結界の魔力量の異常に気づく。
そこで唐突に理解した。
そして全力で答えを否定したくなった。
小屋に結界を張ったのは彼女だ。それはいい。
しかしなぜそれが周囲の魔力を吸収するなどという作用を起こしているのかと問われると、彼女は「なんでだろう」という答えしか返せない。当然だ。そんな傍迷惑なオプションをつけた覚えがないのだから。
あえて答えるとすれば、「ちょっと間違えてそういう効果もついちゃった」そんな感じだ。
小屋に施した魔術が周囲の魔力を微量ずつ集め続けた。
集められた魔力は長い時を経て膨大なものへとなり果て、魔族を引き寄せた。
魔力を吸収する種類の魔族は、集められ続ける魔力を吸い取ることで力を貯え、ついに魔曝熱を引き起こさせるほど強い毒素を放出するようになった。
(…………なに、この、自業自得的な展開……)
そして彼女の魔族の認識は、ほぼ完全にやつあたりの方向に定まったのである。
「……反省タイム、そろそろ終わりにしておくわ」
「そうですねぇ。いつまでもうじうじ湿気っぽいのって、うざったいですしねー」
「セレンほどじゃないと思うなー」
「えー、ぼく湿気っぽくないですよー?」
凄みを帯びた笑顔での会話。
目が全く笑っていない。
距離にしておよそ100m。見逃すつもりは毛頭ない。