それは人間でも獣でもない生きもの。異なる世界から紛れこんだ異質。

 その顎は、爪は、人の血肉を魂を喰らい。
 怨嗟の声はさらなる深淵を呼びこみ、人を奈落へと堕とす。

 魔族とよばれる忌むべき存在。

 彼らがなぜ、どうやってこちら側へとやってくるのか――知るものはいない。




森の魔法使い 7






 その魔族はどこか爬虫類めいていた。
 吸収した魔力で少しずつ形態を変異しつつあったのだろう。不格好でちぐはぐな姿は、爬虫類めいて、というよりも爬虫類からなにかへ変わろうとしていたのかもしれない。

 理性を感じさせない双眸がふたつの人型を捉えている。
 小さいものと、大きく細長いもの。


 ――あれらを喰えば、もっと大きな力を得られる。


 本能でそんな判断をした魔族はふたつの人型に飛びかかる。細い足がばねのように屈伸し、跳躍した。

 鋭い三本の鎌爪の閃き。肉が引き裂かれる音。鮮血。
 その、どちらもがあがらなかった。

 目標を見失った魔族は空を切った爪を不思議そうに見やる。そしてきょろきょろと人間臭い仕草で首を回し。


「さあっすが低級ー。ホント身の程知らずだねぇ」


 緊張感のない笑いのオプションのついた声が魔族の頭上に降った。首をもたげた魔族の瞳に、長いマフラーを遊ばせた細長い影。

「自分との力量差にも気づかないで食ってかかってくるなんて、さっ。…………あれ」

 魔族はセレンの放ったナイフが届くよりも早く身をかわし、木陰に隠れた。思いがけない反撃だったのだろう、様子を窺っている。

「意外とスピードあるんだねぇ。侮ってごめんね? 中級に変異途中の低級クン」

 狙いが外れたことをまったく意に介さず、セレンはけらけらと笑いとばす。
 ひとしきり笑った後、彼は今度は意地の悪い挑戦的な表情を魔族に向けた。

「あ、でも謝ったところで理解できないかぁ」

 今度こそ爪の餌食にしようと、魔族はぐっと身を沈ませ――
 その真横を、一陣の風が抜けた。

「記憶力が悪いのか、目の前のことにしか意識が向かないのか……どっちにしろ、おばかさんなのに変わりはないか」

 姿を現したリィンの手の中には、魔族の顔をかすめて木の幹に突き刺さったものと同じ形のナイフが収まっている。

「だぁって低級ですもーん」
「さっきから低級低級って……実は痛いところをつかれて傷ついているかもしれないでしょう。そういうことは言わないの」
「えー事実いってるだけですー」
「セレン、あなた本気でやってるー?」
「やってるわけないじゃないですかぁ。本気だったらこの程度の低級、最初の一刀で片つけますよう。それをいったらリィン様こそいたぶる気満々でしょー」
「当たり前じゃないの。こんな絶好の憂さ晴らし、逃すわけがないでしょう」
「ほらぁ。だからぼくが本気でやる必要ないんですようー」

 魔族をはさんで交わす会話としては実にふさわしくない会話だ。
 その意味を理解しているのかいないのか、木の上のセレンと背後のリィンとを交互に見比べ、最後にゆっくりと首だけが後ろを見たまま固定された。

「あのね……私、今、これ以上ないってくらいに自分に腹が立っているの」

 リィンは、とても言葉通りとは思えない笑顔で。

「だから悪いのだけれど」

 言いながら組み上げられた魔術が、わずかな高い音を立てて発動する。一見なにかが起こったようには見えないが、望む効果は得られたようだった。

「私の遊び相手になってちょうだいね?」

 とん、と。ブーツの底が軽い音を立てて地を蹴った。

 距離が詰まったのは一瞬。

 懐にまで入り込んだリィンは魔力を乗せた脚を中段に振り上げ――勢いのまま脇腹を横ざまに蹴りつける。
 潰れた声をあげながら、魔族は木々を巻き込みながら吹き飛んだ。


「あ」


 もう完全に手をだす気はないらしいセレンが上の方で口笛を吹いた。

「やっちゃっ、たー……」

 その言葉も瞳も魔族に向いてはいなかった。彼女の心配が向かう先は、なぎ倒させてしまった木。しかしやってしまったことは仕方がないと居直り、リィンは軽い身のこなしで、なんとか起き上がろうとしている魔族の眼前に立った。

「あぁ、安心して。最近散々な目にあわされてね……あなたの上役への腹いせも少しはあるから。単なるやつあたり、というわけでもないのよ。それに」

 小さなナイフを手の中に収めたまま、紫色の瞳がやわらかく細められる。
 残忍さを感じさせるそれを真正面から受け止め、己の運命をようやく理解したのだろう。魔族の体がびくりと戦慄いた。底の見えない深淵の瞳が染められたのは、ただ、恐れ。

「あなたはここにいるべきではないから」

 それを言葉とした刹那だけ、憐れみを瞳にのせて。


「遠慮は、しなくてもいいわよね?」


 すとん、と。

 抵抗なく刀身を収めた鞘は魔族の心臓。
 それを中心に、緑色の蔦が顔をのぞかせ、自然ではあり得ない早さでしゅるしゅると成長を始め――もがく魔族を覆いつくそうと絡みつく。


「――還りなさい」


 それを合図に蔦は大地に飲みこまれてゆく。
 魔族を連れ抱いたまま。

 あとにはなにも残らなかった。

 なぎ倒された木々と、「やつあたり」を済ませたにしては晴れない様子のリィン以外は。




「……ちょっと、疲れたかも」

 こぶしを握ったり開いたりしながらリィンが呟く。その隣についたセレンがちょっと困ったように眉を下げ、気遣わしげに、大丈夫ですかと声をかけた。

「まだあんまり動かないほうがいいですよって言いました、一応」
「うそうそ。平気」
「そんなこと言って、傷開いてたりしてませんよねぇっ?!」
「してないしてない」
「…………本当ですかぁ……?」

 そう言われてしまっては、セレンにそれ以上の言及はできない。
 追及を深めたいのを堪えて、代わりに話題としたのは。

「今の、あいつの追撃ってことは……ないですよねぇ」
「ないわね。あいつだったらせめて中級は寄こす、それもわんさかと。本当に偶然引き寄せられちゃったんでしょうね。直接的な魔族被害になる前でよかった…………よし、問題ない」

 完全に魔毒素の放出が消えたのを確認し、リィンが頷く。

「これで魔曝熱も起きなくなるし、事前に村への根回しもしてあるし。よし、あとは帰って根本になった結界を解くだけ。今度こそ完璧!」
「解いたらまた変な効果が連動して起こったりしませんー?」
「セレーン。あなたどれだけ私のこと信用してないー? あのとき『もうこんな生活耐えられません』ってべそかいたのはだれだったかなー。急いで結界つくらせて、最終調整も済んでないのにすぐにでもここ離れましょうよーって言ったのはだれだったかなー?」
「だからそのことはすみませんって言いましたぁ。あと、信用はしてないですけど信頼だったら全面的にしてますよー。ほらこれ信頼してる顔」
「ふふふ。それこそ信用できない」

 にこやかにマフラーをぐいと引っ張ったその顔は、今度こそ晴れやかだった。




   2009.6.10  (改訂)2010.2.28