ドアが軽く叩かれる音がする。
最初に浮かんだのは、主と相棒が帰って来たのかという安堵と疲労をないまぜにさせられるような、複雑な感情。
しかし、あのふたりがノックなどするわけがないと思い直す。自分たちの住む場所なのだ、その必要はない。第一こんなに静かなわけがない。
――客人?
自分が寝ている間に子どもがひとり来ていたことは知っていた。だが、それでもないだろう。
通りがかりの者が訪ねてきたというのはもっとあり得ない。この小屋は主の魔術によって隠されている。よほど魔術に精通しているものでない限り、ここに小屋があることにすら気づかないはずなのだから。
外にいる者はそれほどの力を持った者なのだろう。気配が全く感じられないのがいい証拠だ。
ならば、なんの気構えもしていなかった自分の存在は完全に捉えられていることだろう。
――無視を決めこもうと無意味……か。
こんなところに帰ってこられたら、今度は自分をベッドに貼りつけようとするのではと思いながら観念して身を起こし、入口へ向かう。久しぶりに動かした気のする体は自分の体ではないようにぎこちなかった。
殺気はない。そのつもりがあるのなら、殺気を完全に抑えることは難しい。
本調子には程遠いにしろ回復には向かっているのだ、もし見当が外れていても、少しはやりあえるだろう――
あともう少しで辿りつくというところで、静かにドアが開け放たれた。
目覚めたての目にオレンジ色の陽光が痛い。
ようやく慣れた目に映った人影は、どこかで……?!
「……貴様…………なぜ……っ!」
それを「やつ」として認識した瞬間、湧き起こったのは――敵意。
忘れるものか。
忘れようものか。
刻まれた傷が、疼く限りは。
「ふん。あれは留守か、混沌の飼い猫」
燃える赤髪の男は、つまらなそうに吐き捨てた。
紅き魔族 1
「ただいまー……って、なに起きてきているのファル。無許可に起きたら激苦水薬の刑と知ってのこと?」
「あーあぁ。リィン様に見つかっちゃったらもう言い逃れできないよねぇーファルくん」
「うん? それは何かな、今までも私の目を盗んで起きていたってことかな」
どうなのファル。ん?
いい笑顔で詰め寄ってくるリィンからつい目を逸らし、つい癖で壁に背をつけてふたりの帰りを待っていたファルは自分の行動を後悔した。起きていたのが気づかれぬようベッドに戻っていればよかったのだ。
(いや、しかし。それでどうにかなることでは)
もし証拠隠滅を図って部屋で横になっていたとしても、先ほど起こった事態を伝えてしまえば意味がない。
「……伝言が」
とりあえず、話を聞く態勢になってくれているのだから伝えてしまおう。このひとは基本的にひとの話を聞いているようで聞いていないのだから。そんなある種の開き直りでもって、ファルは話を切り出した。
「え…………だれ」
小屋とその周囲に張られた魔術は今もその効果を残している。
だというのに、招かれずこの小屋を訪ねることのできる者は多くない。多くないのに加えてろくな者がいない。
該当者を思い描いたのだろう、リィンが怪訝に顔をしかめる。
「先ほどまで、ここに。紅の魔族が」
無表情に淡々と、ファルは訪問者の正体を告げた。
「「……は?」」
魔の抜けた声が綺麗に重なった。
それは該当者の中に含まれていなかったらしい。
「…………え、ファルくん……なんかされなかった? ていうかむしろなにもしなかったでしょーね?! 知らないよ塞いだ傷口ぱっくり開いてまた中身とび出しかけててもぉ!」
「……他の、心配の仕方は」
「なに言ってんのぉ。そこが一番の心配どころに決まってるじゃん。ぐっちゃぐちゃになってた中身元どおりに繋いで、くっつけてしまうの、すっごいめんどくさかったんだからね」
「……………………」
セレンがなにやら生々しい表現でファルを絶句させている間、リィンは片手で顔を覆い――
「あぁー……あれが来たの……」
長い溜息にふけった。
「で。結局私がいないから、また来るって言っただけで要件もなにも伝えていかなかった、と」
「待ってればよかったのに。あいつに出迎えられるのもやだけど」
ほとんど入れ替わりだったんでしょー? という問いに、強制的に椅子に座らされたファルがそうだと頷いた。
「私たちが近くにいるの気づいていながら帰ったわけね」
「……なに考えてんですかね、あれ」
「さぁ。その前になにかしたいことでもあったんじゃない?」
髪を結い上げていた紐を解き、わしゃわしゃと頭をかきまぜながらリィンが適当そうに答え。
「それにしても」
据わった目で呟く。
「マナーがなってない。伝言残すくらいなら要件のさわりくらいつけ加えなさいよね。それにまた来るって、いつ。一方的に約束とりつけられても、私に守る筋合いさらさらないってわかってんのかしら」
「強者が偉いの魔族社会にマナー持ち出すんですー?」
「私たちがいつ、あいつに負けたって?」
「辛勝でしたよねぇ?」
「勝ったことに変わりはないわよねぇ? 先に上位魔族けしかけて、こっちの戦力削いでから本隊がっていう二段構えで潰しにかかってきたのはあっち。それを差し引いたら軍杯はこっちに上がるでしょ」
「……そういう問題……?」
見方しろと目で訴えられたファルが、こっちに振るなと言わんばかりに目を逸らす。巻き込まれてはたまったものではない。
「それにしても……外側からの認識と探知ができないようにしてあるのに、どうしてここを突き止めたんだか……」
まさかそっちの構造まで粗があったわけじゃないでしょうね、という小さな呟きに、伝言を伝えて以降口を閉ざしていたファルがそれは違うと口を開く。
「俺の中に、自分の魔力を微量に流し込んでおいた、と」
すみません、と感情に乏しい声が短く謝意を述べた。
沈黙。
「……そりゃ見つかるわ」
外からの探査を阻む結界も、一度目印となるものが中に入ってしまえば意味を成さない。
「どさくさに紛れて、まぁ姑息な真似してくれて。ファルの回復遅れてるのってそのせいじゃない絶対。…………ファルは悪くないからね。気づかなかった私が悪い」
さらさらの黒髪に手のひらを埋めたリィンが、彼の頭をかき撫でた。長身のファルにそのようにするのは普段であれば難しい。が、座っているのであれば話は別。思う存分撫でまわすことができる。
「そんなこといったらぼくだってそうですよぅ。ファルくんの治療したのぼくなのにー」
「セレンも悪くないから。自分のことそっちのけで応急処置したんだもの、仕方ない」
ぼくもなでてー、と言わんばかりにリィンの手の届く位置で椅子の背に懐いた白い頭。仕方がないのでついでにかきまぜてやる。
「結局この結界は無用の長物どころか厄介者でしかなかったわけね……」
図体のでかい男ふたりが揃って頭を撫でられる、そんな異様な光景を作りだしたそのひとは、やるせなそうに息をついた。
「ぼくお茶淹れてきますねぇ」
重い空気を払拭しようとしたのだろう。なにやらどんどん力のこもってくる手に、不穏なものを感じ取った、というのが本音かもしれないが。
「……コーヒーがいいー」
「はぁい。ラーヴィラ産の苦ーいやつが残ってますけど、それでいいですかぁ?」
「あ、待った。ここにお酒って残ってなかったっけ?」
セレンの笑顔がぴしりと固まり……ややあって、明らかな作り笑顔が貼りつけられ。
「あっはっは。それってぼくに喧嘩売ってるんですか。それで血行よくして、せっかくくっつけたとこ破っちゃおうっていう、そーいう魂胆ですか。そーうですか。とてもじゃないけど薬師の吐く台詞とは思えませんよねぇ」
「私大丈夫だって言ってるのに……」
そんなものは残ってません、と足音高く台所に引っ込んだセレンが珍しく無言でコーヒー豆をごりごりと挽きはじめる。音に妙な気迫がこもっている。
そうして、自分らの行動が治療者の著しい不興を買っていることに気づきながらも改める気はない患者ふたりへの、怨念入りコーヒーはできあがった。
その後、ファルはふたつの笑顔の威圧によってベッドに押し込まれ。
嬉々として彼の元を訪れたリィンの手には、まさか飲みものとは信じたくない色と匂いを発する液体の湛えられたコップが握られていたのだった。