湯気とともに芳しく香り立つコーヒーカップを傍らに、テーブルに向かう女が一人。
広げられた幾枚もの紙に描かれる幾何学的な図形、びしりと埋められた文字。そして今もペンが走る紙には本人以外には読み解くことができないであろう乱雑な文字が、記号が綴られてゆく。
外からディックの叫び声が聞こえたが、口の中でなにやら呟いている彼女の耳には入っていない。
そんな姿を、一匹の白い犬がしっぽをぱたりぱたりと振りながら見つめている。
紅き魔族 3
歌は、好きだった。
はじめはただ聞いていただけ。
耳が拾う音は存外に心地よく、気がつくと旋律をなぞり、歌詞を口ずさむようになった。
それがだれの歌うものだったのか、覚えてはいないけれど。
「……だれ」
無遠慮に近づいてきた男を認めて旋律を止め、睨みつけた。
せっかくましになってきた気分を霧散させてくれた男。あれ以上近づいてくるつもりがなかったなら見逃してやったものを。
「や、俺のことは気にせず。歌の続きをどうぞ?」
「おまえはだれかと訊いている」
「なんだ残念……続きを聞きたかったのに。俺はキースだよ。見ての通り旅の途中。きみは?」
視線をものともせずに軽い調子で問うてくる男に、私は少なからずたじろいだ。なぜ、かはわからなかったけれど。
「……名前は嫌い」
「はぁ」
「言いたくない。おまえに言う必要もない」
名前は嫌いだ。
それを呼ばれるときは大嫌いな仕事をさせられる合図。私の意志と関係なしに。
そう呼びながら、大嫌いな兄が寄ってくる。私の意思は関係なしに。
だから――
「ふむ、それは困った」
さも難題を抱えたかのように唸った男は、顎に手をあてて難しい顔をした。
「名前が呼べないのは困る。それに不公平。普通は『だれだ』って聞いた方から名乗るものだろ」
「先に名乗ったおまえが悪い」
「おまえじゃなくてキースだってば」
「呼ぶか呼ばないかは、私が決める」
「重ねて屁理屈だな! じゃあよし決めた」
男が悪戯っぽい顔になる。
そんな表情を見るのは初めてで、なんとなく興味を惹かれる。
「リィン」
「………………は?」
「きみの名前。今決めた」
「意味がわからない」
ゆっくりとかぶりを振りながら思い切り眇めた目にも、動じる気配はない。
――この男、さっきからいったいなにを言っている?
「え、歌う声が鈴みたいに綺麗だったから。鈴の音からリィン。だめ?」
「そういう意味じゃない。しかも安直」
「安直で結構。言いたくないって言うから俺が決めたんだ。それとも何、この名前も嫌い?」
言葉がうまく見つからない。
よくわからない感情が腹の奥底に渦巻いて、それが良いものなのか悪いものなのかすらわからない。
――この感情は、なに?
沈黙を勝手に肯定と取った男が、満足そうに私の肩をぽんと叩く。
「よし決定ー。決定ついでに近くの町まで一緒に行くか。な、リィン」
「……横暴」
ぐい、と引かれる腕の力は存外強く。
それでも振りほどこうとは思わなかったのは、なぜだろう。
リィン。
やわらかな羽毛で頬を撫でられるようなくすぐったさをはらむ声。
その声に、そう呼ばれるのはきっと悪いことではない。
仕事は終えたばかりだ、少しばかり帰りが遅れても問題はないだろう――引かれるがまま、そう思った。
うっすらと開いた目がまず留めたのは、テーブルに散乱した紙に羅列した文字。
「……白昼夢って…………」
まだ残っている夢の断片を少しでも多くかき集めようと、彼女は必死に意識を探る。滅多に見ることのできないそれを離すまいと。
「禁断症状?」
握られたままだったペンをくるくる回しながら、洩らしたのは乾いた笑み。
腕をつかまれた感触が残っている気がして、彼女は無意識にその場所を撫でた。その行動に気づき、また呆れ気味に自嘲する。今度は指が首元に向かう。
「……未練がましいものね。そうでなければこんなことはしない、か」
指先で撫でるのはチョーカーのヘッド。
仄かな緑色の光を閉じ込めた、涙石。
「私は、…………弱いから」
白い犬がとことこと歩み寄り、しっぽをぱたぱた振りながら膝に前足をかけた。
ルビーの瞳に覗きこまれた彼女が頭を撫でてやると、ぴんと立った三角形の耳を丸めて気持ちよさそうに鼻を鳴らし、目を閉じる。
「さて。早いところ結界の構成を完成させないと」
彼女が頭を悩ませていたのは、つい最近までこの小屋周辺に張っていた問題作の結界だ。
このままなら、行き詰まることさえなければ二日もあれば最終調整も加えて完成できるところまで進んでいる。ファルに植えつけられた魔力もすでに取り除いてあった。
もう体調に問題はない。魔力を繰る感覚も以前に戻りつつある。
というのに、紅の魔族は未だ現れる気配すらなかった。
同じ森の中にいたというのに気配を感じさせなかったのだ。次に現れる時も同じだろうと、彼女は何の対策も取ってはいない。相手に戦意がないのなら、こちらも気を張っている必要はないと。
あれは人の姿を模る魔族。
今ここに現れたとしてもディックは単なる訪問者としか思わないだろう。が、できればはち合わせて欲しくなかった。なにが起こるかはわからないのだから。
「ところでディッくんはまだ終わらないのかしらね」
そんな独り言を見計らったかのように、玄関のドアが開かれた。
「終わった! これを見ろ!」
「はい。ご苦労様」
どうだとばかりに籠を指差すディックの額からは汗がだらだらと流れている。その足下を、黒猫が音もなくするりと抜けた。
「お目付け役もご苦労様」
「あっ、やっぱりおれを見張ってたのかよおまえっ」
肯定だろうか。猫はディックを見もせずに、背中で一声「なぉん」と鳴いた。
そしてディックの視線はリィンの足もとでお座りしている白い犬へと向かい。
「……犬と猫なんて飼ってたんだ」
「最初からいたわよ。気づかなかった?」
最初っていつだよという疑問に答える気はなさそうなリィンは、テーブルの上のものをひとまとめにして脇にどける。
「お昼食べていく?」
「……昼代かからないなら食べてく」
「なかなか懐疑的になったのね」
「かいぎ?」
「私の言うことを疑うようになったわねーって」
「うん」
大真面目に頷いた。どこか遠い目で。
「あの子がセレン呼んでくるから待ってなさいな」
「リィン姉ちゃんが作るんじゃないの?」
「まさか。台所はセレンの領域よ」
犬がかつかつと爪音を立てて器用に自分でドアを開け、隣の部屋へ消えていった。