「それじゃあディッくん、仕分けするわよー」
「はーい……」
「元気がないぞー」
「はいーっ!」

 やけくそで答えてから、ディックは昼食前に自分が籠に放り込み続けた草の山を睨みつけた。

 傍らには年月を感じさせる分厚い図鑑、『薬草大全』。わかりやすい。
 重量感と存在感を主張するそれに、白い指がかけられた。適当なページが開かれてから、はらりはらりと乾いた音を立てて項が繰られていく。
 目当てを見つけたのだろう、とあるページで手が止まった。

「ルワールドロップ」

 凛とした声で、記された名前を読み上げた。
 ページの真ん中には細いぎざぎざした葉を持つ草の絵が描かれている。

「一般的に使われる熱さましの薬草なんだけれどね。この中からルワールドロップを見つけてこっちの籠に選り分ける。それが次のお仕事」
「…………ここ、から……?」
「文句があって?」

 恐ろしげに草の山を見やったディックに返ってきたのは、有無を言わせない笑顔だけだった。
 彼の姉のネリスとはまた違った強制力。
 ネリスは口でまくしたて、言葉通りの力押しでディックを動かす。が、この顔だけは大変綺麗な薬師が持つのは笑顔の威圧。のらりくらりと肩すかしをくらって、結局は負ける。負けなければ先へ進めない。

 二人の方法は対極だが、ディックをうんざりさせ仕方なしに動かすという結果は同じ。
 そうとわかっていても言いたくなるのが文句というもので。

「あるよっ、ありまくりだよ! だったら先に教えてくれて、その草だけ集めればよかったじゃん」
「そうねー。でもルワールドロップだけじゃなくて、ついでに他の薬草も欲しかったし」

 けろりと言ってのけたリィンはしおりを挿んでまたぱらぱらとページを繰り始める。そうして次々と草の名前を挙げ連ねて効能を説明する声を、ディックはどこか遠いところで聞いていた。情報が入ってくる傍から抜けていく。

「まぁ、私も一緒に手伝うから」
「手伝うのはオレじゃないの……?」

 こうして少年は大人に……なる、のかもしれなかった。




紅き魔族 4






 ぐてん。
 大の字になったディックの目に映る空は茜色。強い西日が容赦なく彼の閉じた目にすら入り込んでくる。あれから三時間、図鑑と実物とで散々にらめっこをしていたのだ。

「目ぇ痛い……」

 頭も疲れたが、目が疲れた。

「目薬いる? しみるけど」
「やだ」

 ディックは目を瞑ったまま答える。
 彼女が優れた薬師らしいことは知っている。でも、目に薬を入れる? そんな怖いこと冗談でもしたくなかった。

「ふぅん……ディッくん。ちょっと目、開けて」

 逆らうと今度は何をさせられるかわかったものではない。ディックはそろそろと目を開けた。

 ぴちゃん。

「っ、うっわ!」

 驚いたディックは飛び起きた。目を擦り、しぱしぱと瞬きを繰り返す。

「なにするんだよっ!」
「目薬。一度も試してもいないことを拒むのは、その先にある可能性を拒むことと同じよ?」

 くすくすと笑うその様子からは、ディックの反応を完全に楽しんでいるのが丸わかりだ。

「で、少しはすっきりした?」

 確かに目の疲れがましになった……ような気がして、腑に落ちないながらも頷いた。
 ディックは胡坐をかいて、空の色を映して茜色に近づいたリィンの瞳を見上げる。

「リィン姉ちゃんさぁ……」
「ん? なにかな?」

 そろそろ帰らなければ夕飯に間に合わなくなるかなー。
 頭の片隅で姉に怒られる自分を思い描いたが、ディックはそのリアルな想像を振り払った。訊いてみたかったことがあったのだ。

「なんで薬師になったの?」

 ディックは今日一日で十分に理解した。
 薬師なんて簡単になれるものじゃない。なるためにはとんでもない時間が必要だと。

「どうしてそう思ったのかな?」
「だってリィン姉ちゃん、いつも図鑑持って薬草集めてるわけじゃないよね。ていうかさ、この図鑑の中身覚えてて、使ってないよね?」
「そうね。久しぶりだったからどこに置いたか忘れていたし」
「すごい勉強したんだよね?」
「まあ、そうでしょうね」
「なんで勉強しようと思ったの?」
「んー……」

 リィンの視線が宙を彷徨った。紫の瞳が、懐かしいものを見つけたようにやさしく細められる。

「教えてくれた人がね、大好きな人だったから。……なにその顔。以外?」

 心外だ、と言わんばかりの拗ねたような珍しい表情で。それも併せて、呆けたままディックは答える。

「以外だよ」
「まぁいいけれど。その人は私に薬の知識を教えてくれはしたけれど、どちらかといえば言葉や心を通わせるための手段のひとつにしていたのかな。それを私が覚えていった。私はその人に少しでも近づきたくて薬師になったのよ。もちろん自分で研究したりもするけれど、それはその人と離れてから」
「なんで、離れちゃったの?」

 大好きだったら離れたくないんじゃないの?

 それは、世の中のことをまだよく知らない子どもだからこそ訊けた問いだった。少しでも察していれば、分別のあるものなら、決して口には出さない問い。
 リィンは答えず、ただ微笑んだだけ。

「勉強は、勉強をするためにするものではないの。勉強はなりたい自分になるための手段。だから、その時に本当にやりたいと思えることを学びなさい。その先でなりたい自分が変わったとしても、得た知識は無駄にはならないから」

 リィンの言葉は不思議とディックの中に、水のように浸み入った。

 ディックは勉強が嫌いだ。読み書きも計算も得意な方ではない。
 週に二回、村の子どもは集会場を学校にして勉強を習いに行くけれど、村の子どもは揃って勉強に熱心ではない。
 大人は皆『勉強をすれば先生のように立派な人になれる』と口をそろえる。  だが、したくないものはしたくない。宿題だって忘れるのではなくてやらないのだ。先生に怒られてもそれほど怖くなかったし、立派な人と先生がどうしても結びつかないのだ。  それに、立派な人というのがなんなのかディックにはよくわからない。

 ラムロット村の者は半分以上が農民で、あとは小さな店をやったり行商に出ているものばかり。教師は例外みたいなもので、ほとんどが家の職業を受け継いでいる。
 だからディックも自分は家の農業を受け継ぐものだとばかり思っていたし、周りもみんな同じで、なりたいものなんて考えたことはない。立派な人というものになれたとしても、関係ないんじゃないかと思うのだ。
 だから。

「おれ、なにがしたいのかなんてわかんない」

 なりたい自分って、なんだろう。
 ディックは初めて考えたのだ。

「今はまだ決めなくてもいいの。勉強はね、なりたい自分の選択の幅を広げるためのものなんだから」
「選択のはば?」
「例えばディッくん、あなたがいつか薬師になりたいと思うのなら、薬の勉強以外で今なにができると思う?」
「……今?」

 突然言われても、ディックの頭には何も浮かんでこなかった。

「この本、難しくて読めない字がたくさんあったでしょう」
「……字の勉強?」
「そう。知識を得るための一番の先生は本。だから読めなければお話にならないの。それに文字は知識という武器にもなるけれど、身を守る盾にもなる」

 これも例え話だけれど、と注釈してからリィンは話し始めた。

「ディッくんは大人になって農家を受け継いだ。町からやってきた商人が『こういううまい話がある、この紙にサインすればお前は大金持ちだ』なんて言ってきた。でも書いてあることが難しくて読めない。でも急かされて、話に乗って契約書にサインしてしまった。そこには不利なことしか書いていなかった」
「それって」
「詐欺よ。でも契約は契約。一度同意したら取り返しがつかない。だまされた方が悪いと言われるでしょうね」
「文字を読めればそんなことにならない。それが、盾?」

 リィンは頷いた。

「勉強の意味、少しは理解できたかな?」
「うん。少し」
「じゃあそろそろ帰りなさいな。家族が心配するものね」
「うん」

 明日は昼頃に村に行くから、そう伝えておいてという伝言をもらい、ディックは帰路についた。
 東の空が暗くなり始めていた。でも彼の心に恐怖はない。村の集会場の先端はここからでも見えている。

 体は疲れきっているはずなのに、ディックの心はなんとなく晴れやかだった。




   2009.6.22  (改訂)2010.2.26