太陽が西に沈みかけ、すでに客は捌けている。
 疎らに立ち並ぶ家々からは煙が細く昇り始めた。夕飯の支度がはじまったのだろう。子どもたちはまだ遊び足りないらしく、元気に声をあげながらボールを追いかけて駆けまわっている。

「もう店じまいか?」

 帰り仕度を始めた折、彼女に声をかけてきたのは若い目立った風貌の男だった。
 リィンはちらと横目をくれただけで、広げていた薬を種類ごとに紐でまとめる作業に戻る。

「ええ。なにか薬が入り用でしたらまたの機会に。私はもう帰ります」
「そうか、それは残念だ。よく効く薬を売ってくれると聞いたので期待したんだが……知り合いに重傷者がいるんだがね、それでも『またの機会』なのか?」
「それほど急いでいるようにも、焦っているようにも見えませんので」
「顔に出にくい性質でね、これでも相当困っているんだが。どこかのだれかに――特に躾のなっていない猫に散々引っかかれてね。一時は死ぬかと思った」
「自業自得では?」
「おいおい。それが薬売りの台詞か」
「残念ながら、私は薬売りではなく薬師ですので。それでは」

 荷物をまとめ終わったリィンはそっけなく言いつつ立ち上がると、声をあげる。

「ちょっとセレン、帰るわよ」

 聞こえているはずなのに、えいやっとボールを投げるセレンからの返事は返ってこない。子どもたちに混じってはしゃいでいる姿は大人げないはずなのに、なぜか違和感がない。だからこそ子どもにも受け入れられ、溶け込むことができるのだろうが。

「もう…………」
「町や村の性質は、子どもを見ればわかる。ここは随分と平和だな」

 男はリィンと並び、子どもたちの様子を面白そうに見やった。

「……私、そういうほっこりとした世間話で親交を深めるつもりはないのよ。あなたと」
「俺とおまえの仲だろう」
「そうね、確かに。つい最近殺し合いをした仲には違いないわね。なにしに来たの」

 リィンは呆れ混じりの、しかし隙のないまなざしで、燃える赤髪の男をひたと見据える。

「なにをしにもなにも、また来ると言づけておいたろう。猫に」
「いつ来るとも言われていないのに、私が待っているとでも思った? そもそも私にはあなたを待たなければならない筋合いないのよね」
「まぁそう怒るな」
「ここは怒っていていい場所なの。とどめを刺されに来たのなら歓迎してあげる」
「今回はやけに好戦的だな」
「ええ。久しぶりに出てきたと思ったら、配下引きつれて問答無用で本気で潰しにかかってきてくださった誰かさんのおかげで」
「血圧が上がるぞ?」
「おかげさまで一時は下がりすぎるところまでいきましたので。お気になさらず」

 刺々しい会話は、遊び相手をなくしたセレンが物足りなそうに戻ってくるまで続けられる。




紅き魔族 5






「座り心地が悪い」

 小屋に足を踏み入れた男は椅子に腰を下ろして開口一番、憮然と言い放った。簡素な木製の椅子はお気に召さなかったようだ。
 対面する席に座るリィンがやんわりと、だが背後にうすら寒い空気を背負う。

「あらそう。なら座らなければよいのではなくって?」
「ほう。この俺に立ったままでいろと? それはそうと、ここでは客をもてなすのに茶菓子のひとつも出さんのか。無作法な」
「セレン」
「はぁーい……」

 感情のこもらない一言を受け、セレンはすごすごとティータイムというには遅すぎる茶の支度を始める。

「用意の悪いことだ。あまり俺を待たせるな」
「だったら、早いところ本題に入ってもらいましょうか」
「ふん。確かにな」

 憮然としていた表情を一転させた不遜な客人は、唇の両端をつり上げる。
 妖艶な紅い瞳。
 セレンのルビーとは異なる、鮮血の如き紅。

 心を惑わせ、魂すら惑わせる魔族が――そこにいた。

「率直に言おう。試させてもらった」
「なにを」

 一言だけの問いを発し、リィンはクッキーをぱきりと二つに割って口に運ぶ。
 それを作った本人は魔族の男がクッキーに手を伸ばすのを目撃し、紅茶をティーカップに注ぐ手を止めて思いきり嫌ぁな顔をした。ぼくそれあんたのために作ったんじゃないんだよ、という心の声が目に見えるような、そんな顔を。


「おまえを――正しくは、おまえたちを殺せるのかを」


 すっ、と紫の瞳が細められる。その奥に沈む感情の名前は推し量れない。
 だが程なくして底冷えのする色は薄まる。代わりに投げやりな、陰りのさした雰囲気を湛えて。

「それで、結果は?」
「聞きたいのか?」
「訊きたいのはラスティ、あなたの方ではない?」

 魔族の名をここにきてはじめて口にし、紅茶の水面に視線を落としながらリィンはただ、言葉を待った。

「では訊こう。おまえたちは他者の手に拠れば、殺すことができるのか?」
「……さぁ。無理じゃない?」
「随分と暢気なことだな」

 クッキーを弄びながらの適当さが滲み出る答えは、どうやら彼の気には召さなかったらしい。

「確かめたことはないから。でもたぶん無理。なんというか……中途半端に理から放り出されてしまったからね、私たちは」
「それは前にも聞いた」

 横やりはさらりと無視され、言葉は続く。

「魂と命のサイクルの中にいない。だから新しく始まることはないし、終わることもない。残念ながら、抜け道も今のところ見つけられていない。見当もつかない。これも前に話したかしら? ……どうしてまた今になってそんなことを訊くの」
「見当がつかんとは言わせんぞ」
「見当がつかない」

 にっこり笑顔なのはいい。が、台詞が棒読みである。
 魔族のこめかみがぴくりと痙攣した。

「……俺が魔王になってから、どれくらいだと思う」
「さぁ。興味ないもので」
「奇遇だな、俺も覚えていない。まぁ二百年といったところだろう」
「あ、そう。まぁそうでしょうね」
「それでも、魔界の掌握には程遠い。なぜかはわかるな」
「…………私に、アレと関わらせるつもり?」
「アレはおまえの片割れだろう。関係がないとは言わせん。こっちは迷惑しているんだよ、勝手に強硬派の魔族を使われて」
「だから私に殺せって? だから無理。物理的に、いろいろ無理」
「おまえが出ていけば抑止力にはなるだろう」
「なんで私があなたのためにそんなことしなければいけないの。私たちいつの間にそんなに仲良くなった?」
「さあな。ただ」

 ようやくリィンの視線を得ることができた魔族は、酷薄に唇を歪めた。


「人間が大好きな女神さまなら、人間のために、魔族のこれ以上の流出を抑えたいのではないかと思ってな」


 沈黙が場を支配する。
 流れるのは、ただ息遣いと咀嚼、強まりつつある風の音。

 思い出したかのようにティーカップへと手を伸ばしたリィンは、潤った喉で感情の見えない声を紡ぐ。

「……ねぇ、ラスティ。覚えておいて。私、だれかのためにっていう言い訳、これ以上ないというくらいに嫌いなの」

 だれかのために、それが目的ならばいい。
 けれども、だれかのためにを理由に自分を正当化させるのは我慢がならない。それは結局自分のためなのだ。自分のためなら、最初からそう言えと思うのだ。

「あと。人間が大好きなのはあなたでしょう」

 リィンが紅き魔族、今は魔王となったロード・ラスティと知り合ったのは、そう最近のことではない。

 初めはお互いをそうと知らずに通り過ぎて出会った。
 それはまだ、互いのたいせつなものが形として傍に在ったときの話。
 穏やかで、幸せだった時間が永遠に続けばよいと望み、その願いだけは叶うことがないと諦めつつ、心のどこかで起こりえない奇跡を望んでいた頃の。

 互いのたいせつなものは、もういない。
 だから互いだけが、自分の大切なものを知る自分以外。

「……キースと言ったな? おまえのは」
「ミヅキちゃんよね。あなたのは」

 それは簡単には触れられたくないもの。
 胸の内に秘して、ただ想いを募らせて。大切に、たいせつに抱きしめて。

 たいせつなものだから、自分以外のものから遠ざけて。
 自分の中に抱きしめて放さないで、そっとしまって傍におく。

「……おまえがその名を呼ぶな」
「あなたの方こそ呼ばないでって、言いたかったのよ」


 ――俺の、私の絶対侵入禁止領域に土足で入りこむとは何事か。


 互いだけが自分のたいせつなものを知っている。
 それは甘美で無二ではあるけれど、それでも触れられたくはない。

 あまりにたいせつすぎて、自分で触れることすら簡単にはできないのだから。

「呆れるくらいに楽観思考だったな、あの男」
「…………どーしてあなたなんかを選んだのかわからないくらい、勘のいいおっとりしたコだったわよね」
「おまえがミヅキを語るな」
「あなたがキースを評さないでちょうだい」

 だから名前を呼ぶなと。

 その後も延々と続く、身の凍るような惚気話にうんざりしたセレンとファルが小屋から出ていったことに、ふたりはまったく気づかなかった。







 たいせつなものだから自分から遠ざける。遠ざけて見守り続ける。

 ――そんな護り方を選ぶ勇気も、強さも。私にはなかった。できなかった。だから。

 自分の中に抱きしめて離さないで、だれにも告げずに抱き続ける。

 そんな、護り方しか。
 選べなかった。




   2009.6.25―7.4  (改訂)2010.3.4