「エルシー、エルシー! あんたまだ寝てるの!」

 さっさと降りてきなさい! 喚き声が、乱暴に叩かれるドアの音と重なって彼女の耳にきぃんと響く。

(……うるっさい…………なぁっ!)

 母親の声は二日酔いの頭に少々刺激が強かった。だが、それがなければ彼女はいまだに夢の中にいたはずだ。絶対に。

 閉めきってあるカーテンの隙間からは昼の光と、時折人の気配がもれてくる。昼とはいえ、母親が呼びに来たのではもう夕方近いのか――その事実に気づき、彼女はちょっとした後悔に苛まれ、一度は離れた枕にぼふっと顔を埋めさせた。

(また今日も、時間を無駄にしてしまったぁ……っ)

 いくらなんでも寝すぎだとは彼女だってわかっている。わかっているから次の日こそはちょっと早起きしようと思っているのに、結局起きられないのだ。負の連鎖に完全に飲みこまれている。

 閉店時間を過ぎてもなかなか帰らない客。それはまだいい。普通にいる。酔っ払いはただでさえ対処に面倒なのだから。
 しかし客層が良くない方向へと変わってしまった最近、正直もう、限界だった。

 腹立たしさを紛らわせるため、就寝前の飲酒は彼女の習慣になっている。しないと眠る気になれないし、眠れないのだ。

「わかってる、今着替えてる!」

 ひとしきり後悔に浸ったエルシーは掛布を跳ね飛ばし、負けじとドアの向こうに怒鳴り返した。声が舌足らずだったので寝ていたのはどうせお見通しだろうが。単なる些細な反抗だ。

「降りてくる時あの子も呼んどいで。それと、早くしないと夕飯なくなるよ」
「はいはいわかりましたっ」

 他と比べたら早めの夕飯だから、仕事中にはもう腹がすく。だが、抜きで仕事などということになってはたまらない。ただでさえ朝も昼も食べていないのだ。ちなみにその分、仕事が終わった夜中に食べる。不摂生な生活だ。
 エルシーは汗ばんだ寝巻きを脱ぎ捨て、タンスの一番上からワンピースを引っ張り出した。壁にかけておいたエプロンを手早く身につける。肩につくくらいしかない髪をまとめれば身支度は完成。あとは下に降りた時、顔を洗えばいい。

 客が増えるのは結構なことだ。
 しかしここまで忙しくては、彼女だっていっそのこと来なくていいなんて思ってしまうのだ。もちろんそんなことになったら破産して路頭に迷うことになる。だから思うだけ。
 繁盛してるならもっとバイトを増やせばいいのにとも思う。
 だが経営者である彼女の父にはその気がないようだった。

 ――バイトは時間で帰るから、そのしわ寄せは全部娘に寄ってるんですけど。そこんとこどうなんでしょうお父上。

 彼女は足音高く床を踏みしめ、苛立ちをこめてドアを開け放った。




潮騒の唄 3






 エルシーは住み込み従業員用の部屋の前に仁王立った。その扉の向こうには、破滅的な忙しさを運んできた全ての元凶がいる。ドアを思い切り殴りつけたい衝動に駆られたが、以外に働いた自制心がそれを押しとどめた。

「開けるよっ」

 返事を待たずに部屋に入る。
 いつも最初に目に飛び込んでくるのは――黒猫。それは今回も例外ではなかった。猫はまるで当たり前のようにドアの前に丸くなっており、さらにベッドの下では中くらいの大きさの真っ白い犬が寝そべっている。


 ――うち、動物禁止なんですけどね。


 見るたびに思うのだが、どうせ父親が許したのだ、自分が言っても大した効果はないだろうとエルシーは文句を言ったことはない。食事処に連れこんでくるほどの常識知らずでもないようなので、ここは目をつむろうと。
 彼女の父親はめっぽう美人に弱かった。
 そのせいで昔から損ばかりしているのだが、その度に母親に指摘されてはいじけている。エルシーは、自分が男の顔にばかりに関心を寄せてしまうのは父親似だからなのだと信じて疑ったことはない。

 そんな面食いなエルシーが感嘆するくらい、全ての元凶は綺麗な女だった。
 なんというか、垢ぬけているというか。同じ女として考えてはいけないというか。
 初めて見たときは何の冗談かと思った。こんな寂れた、町の端っこの大して繁盛していない安宿に、好きこのんでやってくる歌うたいがいることにも驚きだ。
 まぁ、二週間も一緒の仕事場で働いているのだから、顔にはもう慣れたのだが。

「夕飯。仕事できるようにして降りてきてよ」
「あれ、もうそんな時間だったの」

 忙しさの元凶は本から目を上げ、不思議なものを見るようなぽやんとした目をエルシーに向けた。

 ――私からすりゃ、あんたの方が十分に不思議生物なんですけどね。

 エルシーが苛立ちを増幅させたいのかと思えるくらいにのんびりした動作で本を閉じ、肩が凝ってしまったのだろう、腕を上げて伸びをする。
 どんな本を読んでいたのかなんとなく興味が湧いて、エルシーは表紙に書かれた題名に目を凝らし、眉を寄せた。

「……ねぇ」

 ちょっとあり得ない文字を見た気がして、でも見間違いでないことは確かで、確信を持たないままに尋ねる。

「あんたって……もしかして、魔術師?」
「うーん……まぁそんな感じのものではあるけれど」

 エルシーは、は、と声とも息ともつかない音を発した。

 確かにアスタルは旅人の集う港町。流れの魔術師が立ち寄ることだってあるだろう。
 商店街にも魔術用品や本を売る店が何軒かあって、エルシーは好奇心から店を覗いてみたことがある。重くて暗い静謐な、秘密めいた雰囲気に腰が引けて入ることはなかったけれど。

 アスタルは、端っこではあるが魔術大国イヴァンに属している。
 それでも首都近辺でない限り魔術師には滅多に会えない。自分は魔術師だとほらを吹く偽物ならいくらでもいるが。

「本物? ホントに本物? 証拠は?」
「証拠って」
「魔術見せて」
「…………また今度じゃダメ?」
「今見せてくれなかったら、手品のタネ用意するための時間稼ぎだって思う」
「これは手厳しいのねー」

 それは実際、エルシーが以前使われた手口だった。その時は呆れるくらいお粗末な手品だったためにすぐに偽物だとわかったが、この自称魔術師が手品上手でない確証はない。
 今を逃すわけにはいかなかった。どうもこの女は人を煙に巻くのが上手く、ここで引いたらのらりくらりとかわされて結局見せてくれない気がエルシーにはするのだ。

「まぁ、ここならいいか……」

 エルシーには聞こえない声でぼそりと呟かれる。
 犬が低く抗議のように喉を鳴らしたが、女は構わなかった。


「清廉なる水のしもべ、我がもとに集え」


 天井に向けられた手のひらの上に、点が現われた。
 それは少しずつ少しずつ大きくなり、ゆらゆら揺れる小さな球状になって――浮いている。


「冷艶なる刃に転ぜよ」


 静かに続けられる言葉に従い、球体はびきっと硬い音を立ててひとかたまりの鋭利な氷に変じ。

「はい、ごくろうさま」

 気の抜けた声で、音もなく無数の粒子となった氷は空気に溶けた。

「とっても基本的な水の凝集と氷への転化だけれど。これでいかが?」

 エルシーは口をかぱっと開けて魅入っていた形のまま、こくこくと頷いた。
 これは、手品ではない。手品にはこんなことはできるはずがない。

「すごい……」

 本物の魔術師。偽物なんかじゃない、本物の。

「すごい」

 エルシーは自分の胸が子どもみたいにどきどきと高鳴っているのを感じた。
 初めて見た魔術は想像していたよりも華々しくはなかったけれど、そんなことが気にならないくらいに不思議で――美しかった。

「内緒ね」

 魔術師の女は唇に人差し指を当て、悪戯をもちかける子どもみたいに無邪気に笑う。
 それがあんまりにも年不相応で可愛かったから――本当の年齢は知らないけれど――、思わず頷いてしまった。

「ねぇ、じゃなんでうちで歌うたいのバイト? 魔術師協会で仕事もらった方ががっぽりなんじゃん?小さいっていってもアスタルにもあるんだし。協会。入ってく人見たことないけど」
「入っていないのよねぇ協会」
「え。そんな人いるの」
「うんいるの。こんなひと」

 組織には入れないはみ出し者ということ、だろうか。エルシーにはとてもそんな風には見えなかった。他人事みたいに自身を指差す姿は、相当に暢気だったから。

「まぁ、私、厳密にいえば魔術師って名乗れないし……」

 呟かれた声はまたしてもエルシーの耳には届かない。

「それより夕飯はいいの? 私は済ませたからいいけれど、エルシーは早くしないと食べる時間がなくなるのではない?」
「……ちょっ、やっばっ、母さんに殺されるっ! あんたも早く来てよね、リィン!」

 方向転換して駆け出しかけたエルシーは、床にだらんと伸ばされた猫の尻尾を踏みつぶしそうになって踏みとどまった。

 ただあの子を呼びに来たつもりが、どうしてこんなに時間がかかる。食いたいのは時間じゃなくて夕飯なのに。


 ――それもこれも、あの子が魔術師だったのが悪い。


 自分が好奇心に負けたことは棚に上げ、エルシーはだかだかと階段を駆け降りた。




   2009.7.18  (改訂)2010.3.3