『もったいぶらないでさ、ほら。もう一度聞かせてよ』

 せっかく綺麗な声なんだから。
 そんな恥ずかしい言葉を平気で吐き出すこの男は、いったいどういう神経をしているのだろうと考えると不思議でならなかった。
 けれど。


 ――その程度で喜んでくれるのか。私にも、だれかを笑顔にさせることができるのか。


 この人間の笑顔をもっと見てみたくて。
 次はどんな言葉を紡ぐのだろうと知りたくて。

 私は歌った。




潮騒の唄 4






 宵をとうに過ぎ、町の人々の多くが夕食を終え団欒を迎えている頃。
 アスタルの港にほど近い一軒の酒場は盛況を見せていた。

 ランプの明かりはお世辞にも煌々とはいえない。が、前後も定かではない酔っ払いたちには全く問題ではない。煙草に煙る室内は微かとはいえない程度に靄がかかっているのだ、照明の強弱にあまり意味はないだろう。
 男たちは杯を酌み交わし、追加を求める野太い声があちこちから上がる。その間でエプロン姿の女が3人、並々と酒を湛えたグラスや空き瓶を手に、せわしなく行き交っていた。

 エルシーとその母親、そしてエルシーの友達でもあるバイトのダナだ。店が異常な繁盛を見せる前から変わらない面子。変わったといえば、たまに顔を出す程度で宿の切り盛りにかかりきりだったエルシーの母親が、毎晩手伝いに駆り出されている点だけだった。

「これで最後だよ、エル。悪いが、配り終わったら足りなくなる前に取りに行ってくれ」
「はぁーい……」

 父親は厨房で肴の小料理を作っているため手が離せない。エルシーは注文を受けたテーブルにグラスを配り終えると、ひんやりとした貯蔵庫に足を踏み入れた。
 喧騒がくぐもり、遠く聞こえる。
 完全に隔絶されているわけではないのに、むわっとした空気から解放されただけで妙に落ち着いた気分になった。
 同時に、徐々に徐々に蓄積された怒りがふつふつと込み上げてくる。それをやりすごそうとエルシーは大きく息をつき。

「……あいつら慎みという言葉を知らんのかっ」

 吐き捨てた。
 実際、知らないに違いない。そうでなければあんなナチュラルに人の尻やら胸やら触って卑猥な会話をしているものか。

 酔っ払いに慎みを求めるのは間違っている。
 しかしこれまでの客――宿を利用する旅人や古馴染みの客にはまだ節度があった。たまには失礼な客もいたが、こちらが少し強気な態度に出ればすごすごと退散するようなレベルの奴らで、その場でストレスが消化できたのだ。
 ……以前は。

 エルシーは瓶の入ったケースを引っ張り出そうとうんうん唸る。だが動かない。

「もうっ、どうして父さんいつもこんなの普通に運んでるの! 信じらんない」

 酒の補充は父親の仕事。娘に頼んだということは本当に手が離せなかったのだろう。
 こんなに重いとは知らなかったエルシーは、思わず父親の腰の心配をしてしまった。大丈夫だろうか。もういい年なのに。

「瓶、出して持ってくしかないか……」

 そう決めたエルシーは瓶を出しながら再び深いため息をつく。
 このまま居心地のいい貯蔵庫に腰を据えてしまいたかった。けれども自分がここにいては他の二人の負担が跳ね上がってしまう。母さんには後で小言を言われるに決まっているし、ダナには悪い。やはり戻らなければ。
 もう一度ため息をつこうとして、やめた。最近増えすぎだと辟易してのことだ。ため息をつくと、ついた数だけ幸せが逃げるというし。

「それにしてもあの子、少しくらいこっち手伝ってくれてもいいのに」

 その願いには無理があった。
 彼女の仕事は歌をうたうことだ。それ以外のことをさせるのは雇用条件に入っていないだろうし、なにより彼女に配膳をさせたら余計こちらの手間が増えそうだとエルシーは思っている。ならば大人しく自分の仕事だけさせておいた方が良い。

 彼女の歌声は、素人解釈ながら今までエルシーが聞いた誰のものよりも素晴らしかった。
 魔術師だと知って、まさか歌に客寄せの魔術でも使ってるんじゃないでしょうねと思ったが、それはないだろうとすぐに思い直す。
 客を呼び込んだ一番の理由は、彼女の容姿だ。

 歌の最中は比較的大人しくしている酔っ払いたちだが、彼らは歌が終わると途端に下卑た野次が歌姫に飛ばす。しかし彼女は慣れているのか気にも留めない。その様は羨ましくもあったが、同時にこれ以上の面倒事を呼び込んでくれるな、というひやひやした思いを抱かせる。

 エルシーたちは、彼らに強気に出られない。絶対に。


 だって、ここにいる客のほとんどは海賊なのだ。


 この店は港近くの宿を兼ねた酒場だけあって、朝一番の船を使う旅人に好まれている。
 立地条件からして海賊も来そうなものだが、近くに海賊がたむろするもっと大きな酒場がある。彼らは普段そちらを利用しているのでエルシーの店はまっとうな客に恵まれていたのだ。

 しかし最近、美貌の歌姫の噂を聞きつけて彼らが流れてきた。
 おかげでエルシーの店は宿泊客が降りてこられず、古馴染みが足を遠のかせた海賊御用達の酒場となり果ててしまった。

 強気に出たら、何をされるかわかったものではない。
 簡単な護身術程度ならエルシーも身につけているが、それはせいぜい痴漢撃退程度でしかない。それに引き換え、相手は荒っぽい世界に身を投じた戦いのプロだ。敵うわけがない。逆らうなんて考える方が間違っている。

 何かがあっても、誰も守ってくれる人はいない。厄介事は未然に防ぐしかない。
 ここはそういう町。

 だからエルシーは「来る店違うっての!」とツッコミを入れたくなるようなことをされても、こっそり青筋を立てた笑顔で接客しているのだ。お前ら少しは慎めよな、そう思いつつ。

 でも慎みを知っている海賊がいたら、それはそれで嫌な気がする。
 別に海賊にロマンもなにも持っちゃいないが、それだけはなんだか違う気がすると思うのだ。矛盾を感じないでもないが、それはそれだ。

 貯蔵庫に聞こえてくる声が静かになった。やれやれと思いながら瓶を数本抱え上げ、立ちあがる。

 ――いくら魔術師だからってね、あんたみたいのが海賊にかかられたら敵うわけないんだから、大人しくしてなさいよね。

 別にエルシーは彼女を心配してるわけではない。ただ、面倒事がこっちに波及してこられたら困るだけだ。待っているという人が来て、早く出ていってほしいと思う。
 それは紛うことなきエルシーの本心だった。




 エルシーが貯蔵庫を出たとき、すでに歌は始まっていた。

 透きとおった声。
 高いところも低いところも澱みなく、耳に優しい。

 彼女はとても穏やかに、優しげな微笑で歌うのだ。本当に歌が好きなのだと言わんばかりに。

 しんみりとした男女の再会を願うその歌は、本来海賊が好むものではない。
 それなのに気性の荒い海賊たちが静かに耳を傾けているのは、確かに彼女が容姿だけではなく、歌とその神秘的にも見える雰囲気で、彼らを惹きつけているからなのだろう。

「父さん、これ」

 瓶をカウンターに置いて小さく声をかけた父親は、どうやら聞き惚れていたらしい。エルシーの声に我に返ったように娘を労った。

「もう一回行って持ってくる。父さんみたいにいっぺんに持ってこられなかったから」
「ああ、頼むよ」

 包丁を持つ手が完全に止まっている。
 これなら貯蔵庫に酒を取りに行くのは自分じゃなくてもいいような気がしたが、父親の楽しみを奪うのも野暮だろうと思いなおし、エルシーは身をひるがえした。

 きぃ。

 小さな音を立てて、入口が開かれる。
 それは本当に本当に小さな音で、ドアの方を向いていたエルシー以外気づく者はいなかった。

 遅れてきた常連がまた増えたのかとうんざりしたエルシーは、そのひとを見た瞬間、その考えを一瞬のうちに霧散させた。

 息をするのも忘れるほどの、絶対的な存在感。

 この人の前では、この場にいる海賊が総じてどれも小物に思える。

 彼はエルシー以外の視線を集める歌姫に視線を留め。
 そうとはわからないほど極めて微かに、深い藍色の目を細めた。




   2009.7.23  (改訂)2010.3.3