聞こえる。
覚えのある、違えるはずのない声。
風に運ばれて鼓膜に届くのは、忘れたはずの心を鷲掴みにされて掻き回されるような郷愁を誘う声だ。迷惑極まりない。
それはまるで彼を誘うかのように存在感を示し、その一方で闇に溶け込んでいる。
――会わずに済むのなら、会いたくはなかったのだが。今はまだ。
その割には足を進めている自分に、彼はほとほと嫌気が差した。
潮騒の唄 5
音もなく静かに現れた青灰色の髪の男。
それを正面に捉える歌姫の目元が、こころなし緩んだ気がした。
――連絡のひとつもよこさないで。
どれだけ待たせたかわかっているのだろうか、リィンは伸びやかな旋律を紡ぎながら心中で憤慨した。
わかっていないのだったら、蹴りでも食らわせてやらないと気が済まなかった。連絡のよこしようがなかったと言わせるつもりもなかった。
旋律が止む。
厨房の方からぱちぱちと拍手が聞こえた。呑んだくれている海賊たちからの拍手はもちろんない。彼女は別に期待してもいなかったし、彼らのために歌っているわけではないのだから気にもならない。
彼女の目的は達せられた。
待ちびとは今、目の前に来たのだから。
どうやら自分から声をかけるつもりはないらしいそのひとに、動く様子も口を開く気配もない。
ただ不敵な顔のままに腕を組んでいる。どこかひとを馬鹿にするような、微かな笑いを含ませた表情だった。
――蹴り倒したい……。
不穏な衝動が彼女の中に渦巻いた。
彼女の視線を追ったのだろう、いくつもの目が入口に立つ男を注視する。その視線を追ってまた一人、一人と、ついには店内にいる全員の目が来訪者に集中する。
「いい男は大変ね。注目されちゃって」
「そういうおまえも随分と目立っているじゃないか?」
「残念ながら、今のあなたほどではないと思う」
それは感動の欠片もなにもない、世間話でも始めるような気安さで。
「ところで来るのが遅い」
「おまえの都合を優先しなければならない筋合いがない」
「あれ、伝わってなかったの? 一晩分は奢るから速攻で来てって。重りになるなら10人や20人海に落としてきてもいいと伝えてって頼んだのに」
「……その程度の報酬で馬鹿正直に俺が動くと?」
「だってほら。来たし」
「アスタルに降りたのは別件だ。お前はついでだ」
片や満面の笑み、片や見る者を凍りつかせる冷笑。
完全に周囲を無視した応酬は、ギャラリーを大いに引かせたようだった。
セレンに言わせると、このやりとりは事情を知る者なら生ぬるい目で見守りたくなるが、無関係の人から見れば、吹きあがる黒いオーラに回れ右をしたくなるものであるらしい。
つまり。
ふと気がつくと、いつのまにか客が綺麗に掃けていた。
「意外と空気の読める人たちだったのねぇ。静かになってよかったよかった」
「いいわけが……あるかぁーっっ!!」
野太ささえ感じさせる叫びと共に、リィンの背後から穏便とは程遠い気配がした。反射的にひょっ、と半歩横にずれた彼女は、見た。
勢いよく、なんの迷いもなしに振り下ろされてきたそれが、青灰色の前頭部に気持ち良くクリーンヒットする様を。
バシィィィンッ! というものすごい音とともに。
――……私からは背後だけど、あなたにとっては正面からだったわよねえ……。
あれは避けられただろう、という呆れと侮蔑を半々にした目で、彼女は床と仲良しになったそのひとを見下ろした。
なかなかに情けない図だ。これ甘んじて受けてやったなどと言われても、説得力は紙より薄い。
武器――注文のバインダーを持ち直したエルシーは、鼻息が荒くバインダーを構えなおして据わった目をリィンに向けた。
「あんたねえ……っ!」
「おー。雄々しい」
鈍器で殴り倒した男になど目もくれない。エルシーにとって、目標を違えたことは大した問題ではないらしかった。
肩を怒らせて戦闘態勢を崩さない姿は勇ましかった。背後になにかが憑いているようにも見える。
「ふざけるのも大概にしてよ! あんたこの始末、どーつけてくれるってぇのっ!!」
「この始末って」
言われてリィンはぐるりと見回した。
うって変わって閑散とした店内。飲みかけのジョッキ、食べかけの料理、お世辞にも綺麗とは言い難く食べ散らかされたテーブルの上。
「……残ったお酒と料理がもったいない?」
「違うっ!」
一喝で否定。
「店の評判が悪くなった?」
「あんなやつらからの評判、落ちた方がせいせいする! むしろ落ちろ! 地に墜ちろ!」
「もう少し綺麗に食べられないのか」
「求める相手が間違ってる!」
バインダーを握る手が、とうとう震えだした。
ゆらり、と上体を不穏な感じに揺らせたエルシーは、這いずるような低音を発する。
「もういい……あんたたちのせいで集団食い逃げされたって言いたいの……! 今夜の売上分、全部っ! この落とし前、どうつけてくれるってのよ!!」
「やだなぁ。わかってるわよーそんなこと」
「この期に及んで白々しい……っ」
笑みの形に歪んだエルシーの口から、乾いた声が漏れる。怖い。
「それ、憂さ晴らしにはもってこいよ。打たれ強いしちょっとやそっとじゃ壊れないから」
やばいかな、と冷静に判断したリィンは。
この件に関してはまったく罪のない青い頭の物体に、過ぎた冗談の結果をなすりつけた。
「頭が痛い……」
「そりゃそうでしょうね」
苦虫をうっかり奥歯で噛み潰したのごとき渋面で呟いた彼の眉間には、皺。
テーブルに肘をつきながらグラスを傾けて。
しぃんと静まり返った店内に彼ら以外の姿はない。食い逃げ騒動を発端にした騒動は、すでに幕を閉じていた。
「いや、久々に面白いものを見たわ」
「……支払いをすすんで持ちかけるほどの見せ物だったか? あれが」
「だってそれ以外の方法で収拾つけるの面倒くさかったし。それに」
リィンは決して安くはない金額の請求書を、ぺしっと突き出した。気の抜けるようでありながら強制力をもった笑顔で。
「私が払うわけじゃないし?」
「ほう……俺にたかると」
据わった光が藍色の瞳に宿った。
口元に薄笑いを浮かべたまま、請求書がテーブルに叩きつけられる。……叩きつけたところで一枚の紙っぺらだ。
「おまえに被害を被って脳震盪を起こしかけたこの俺に、その上たかると」
「だぁってあなたがこんなに遅れなかったら私、バイトしてまでここに逗留する必要なかったもの。必要投資でしょう」
「バイトと偽り宿代をチャラに済ます手口を使っておいて、どの口が言う」
「このくらいあなたには安いものでしょ? それとも、日々の糧を稼ぐのに精いっぱいな、しがない流れの歌うたいに払わせるおつもりで」
彼は心から嫌そうに顔を歪め、盛大にため息を吐きだしてから酒を呷った。
「どこまで厚かましい…………」
「お褒めにあずかり光栄です」
追撃はやめてやったのだ、慈悲と一緒に請求書くらいありがたく頂いてもらっても悪いことではないだろう、そんな彼女の理屈は理不尽だ。
脳震盪を起こしかけた男に酒を飲むなと言わないあたりも、医に携わる者として問題だ。しかしこちらは大事に至ることはない確固としたものがあるので言わなかっただけである。
「俺をここまで翻弄して無事にすむのは、おまえくらいだよ……」
「はぁ。無事で済ませられないひとがいるの。それが別件?」
「……」
「言いたくないのなら別にいいけれど」
わかりやすく視線が逸れる。
彼女はわずかに粘性のある黄金色の液体をとぽとぽとグラスに注ぐ。強く芳しいアルコールの香りを舌先で味わった。
何度酒を酌み交わしたことか。
……いや、酌み交わしてはいない。相手のグラスに酒を注いだことなど一度としてないのだから、お互い自給で好き勝手に飲んでいる、の方が正しい。そして、交わす会話の大半は――不毛。
「でも……これだけは答えてもらわないと」
そう言った直後、男の纏う空気が少しだけ硬化した。
「レナードは?」
私の大切な、セレンとファルと同じだけ大切なあの子は、どこにいる。
なぜ今、一緒に連れていない。
「あの子がどうしたのか、答えて。ディオン」
答えないなんてことは、許さない。