「ねぇ。私、あのとき確かに言ったわよね」
その声色は、冷たく頬を撫であげる。
「あの子を預けたとき、あなたに言ったわよね。絶対にあの子を守って。それに背く行為をしたとき、私はあなたを許さないと」
「……誓ってはいない」
「拒否の言葉を聞いた覚えはないのよ」
「拒否権は認められたのか?」
空のグラスの中で、氷がからりと鳴った。深夜だというのになおも続く喧騒のさざめきは、さらに遠く。
藍の瞳は決して彼女と視線を交わさない。一度も。
「それはあなたの義務でしょう。あなたは擁する者を守る覚悟もなしに、つくりあげた組織の最上位に望んで立っているとでもいうの? そんな甘えは許されない。覚悟がないのなら、最初から全部を拒否して逃げてしまえばいい。それなら私も文句は言わないし、余計な期待だってしない。……でも」
常であれば自信にあふれている藍色が所在なさげにうつろぐ。
「失う覚悟と、守る覚悟があったから。こうして人の中で生きているのでしょう? あなたも、私も」
その覚悟が揺らいでしまう瞬間があることは、私だってよく知っているけれど。
彼女はそう、つけ加えて。
潮騒の唄 6
『レナードを盾にとられた』
感慨もなく、いや、努めて感情を殺して告げられた言葉に、彼女が怒りより先に生じたのは失望。
「まさかとは思うけれど。それをさっき言ってた別件なんて言わないでしょうね」
もともと合っていない視線がまた、わかりやすく、すいっと逸らされる。これ以上逸らすことに何の意味があるのか。
「よくもそれを別件なんて言えたものよねぇ? なに、私に知られる前に何とか取り戻して内緒にしておくつもりだった?」
「……おまえが悪い」
「なにが。どこが」
「おまえがあの時レナードに連絡さえよこさなければ、こんな面倒な事態には陥らなかったと言ってるんだ」
機嫌の悪い藍の瞳は相変わらずあさってに向けられている。
話をするときにはひとの目を見ましょう、せめてそのひとの方を向きましょうと注意したくなるのを堪え、彼女は表情筋を笑みに形づくる。
「ディオンさーん? そういうのはね、責任転嫁っていうかそもそも論点が違うっていうのよー?」
「違わない。残念なことに真実言葉通りだ」
「そう言うなら、どうしてどうやって、どういう理由で、どこかのだれかさんが私のレナードを『盾にとられた』のか話しなさいな?」
ディオンは氷割りをぐいっと傾けると、腹の底に溜まりきった鬱屈を吐き出すかのように息をついた。
海の一族。
世界の海を渡り束ね、同業からも畏怖される最強の海賊一派。敗北を知らぬ海の覇王。国ですら手出しを渋る、確固たる力の象徴。
最盛時には数千にも及んだ海賊たちの服従を、羨望を一身に負う彼の姿は確かに覇者であり、優れた統括者。
それが彼、ディオン・レオンハルト。
――またの名を海賊王。
事の発端は一月半前だという。
海の一族が所有する一隻が、イヴァン神聖国の海上警備軍に拿捕された。
相手が世界有数の大国とはいえ、海上警備軍程度に軽侮されたままでは、これまで築き上げてきた権威が失墜する。捕らえられた仲間も見過ごすことはできない。
ディオンは自ら先頭に立って動き――何の問題もなく奪還は成功した。かのように見えた。
自分が命を救ったはずの部下にレナードを盾にされるまでは。
船を任せていた幹部は命と報酬をちらつかせられ、王を裏切り、王の絶対の信頼を得てやまない少年を――レナードを贄に捧げたのだ。
「なにその阿呆な話」
静かに耳を傾けていたリィンは開口一番、白い目で言い放った。
口にこそしなかったが自分でもその通りだと思ったのか、ディオンはだるそうに目を伏せた。
「その話で、どうして私のせい」
「最初はレナードとは別行動をとって、あいつを陽動に向かわせる予定だったんだ。それが、おまえがいつものように一方的に待ち合わせの約束なんか連絡してきたおかげで」
ふっ、と鼻で笑うディオンの目が嘲りとも自虐ともつかない光を帯びた。そのときのレナードの姿を脳裏に描きでもしたのだろう。
「これが終わったらすぐに行かないと怒られるから、自分も俺と行動すると言いだして」
「泣き落とされたと」
この沈黙は肯定にほかならない。
「まぁ、理由の一端を担ったことは認めるけど。実際問題……これ、部下の管理のお粗末さが原因でしょ」
「……その通りだな」
「勝手に責任転嫁するのはかまわないけれど、それで許されるなんて思わないでほしいわね」
ディオンには覚悟がある。
それは彼女と同じ、それ以上の覚悟。
常に組織というひとつの、数多の命の行く末を握っている。そして、伴う権利と責任を。
彼の持ち得る権利など、責任の前では塵あくたに等しい。自由であって自由にはなれない。その覚悟をもって彼は立っている。
彼女には持てず、持つことを拒否した覚悟をもって。
だから彼女は許さない。
立つ場所は違えど、守るものがあるという同じ責任を抱えた同士として、許すことは許されない。
「あ、着いてたんだディオン様ー久しぶりぃー」
たんたんと軽快な音を立て、階下へと降りてきたセレンがひょっこり顔を出した。遅れて、ファルも続く。
「レナードはー?」
へら、と何の悪気もない言葉を投げるセレン。追い打ちとしてこれ以上はない。
「部下の動向管理も満足にできない王様のへまのせいで、捕まっちゃったんだって」
「ちょっと待て、それは端折りすぎだ」
「あ。間違ってないことは認めるんだ? ところで、なんでレナードそんな簡単に捕まっちゃったのよ。いくら支援が専門だっていっても、あの子だって弱くないでしょう」
「魔術師数十人がかりで抑えつけられた」
思ってもみなかった言葉に、リィンから笑顔が消えた。
魔術師数十人。
それは、海賊の襲撃を受け、急場しのぎで一つの砦に用意できる人数ではない。
……襲撃を予想し用意していない限り。
「待って待って、それ、最初からレナードが目的と。……コンタクトは?」
「ないな。さて、相手方はなにを知っていて、なにがしたいと思う? 断っておくが、俺はだれにもレナードについては話していないぞ」
とりあえず、セレンとファルがレナードを感知できなかった理由はそれで判明した。魔術による妨害を受けているのだ。
同時に、ディオンを目的に捕らえられた線が薄くなる。
レナードを人質にディオンになにかを求めているのなら、接触がないのはおかしい。それとも接触せずとも来ると見越しているからなのか。
そうなると……――。
考えに沈んだリィンの思考が、明るい声で遮られる。
「ところで外見ましたぁ? なーんか随分な大事になっちゃってますけどー」
大事、というにはいささか暢気にすぎる口調だったが、それに対する反応も非常にゆるいものだった。
「あぁ、あれな」
「あれねー」
外にはかなりの数の気配が――殺気が潜んでいた。
蜘蛛の子を散らすように掃けていった客たちは黒いオーラに気圧されたのではなく、ディオンを海の一族の首領と知り、上に報告に走ったのだ。もちろん、そうではない者の方が多かっただろうが。
「なーんか集まってるなーとは思ったけど、べつにいいかなーって。私が困るわけではないし」
「残念だったな。俺とおまえが関連しているのはばれている。無関係を決め込むのは無理があるんじゃないのか」
「ねぇ。まさかとは思うけれど、……あなた、ひとり?」
「大っぴらに身動きが取れると思うのか? あの話で」
「船は」
「とっくに潮流に乗っている頃だろうな」
「……ちょっと、海賊間の闘争に私を巻き込まないでよ」
「もう遅い。せいぜい巻き込まれろ」
確かに、ここに残って関係性を追及された方が遥かに面倒くさい事態になるのは事実。そうして結局力技になるのであれば、面倒は分散させるべきではないだろう。
「……一応確かめておこうかしら。ここを出て、あなたはいったいなにをする?」
「レナードを取り返す」
澱みない答え。それだけで十分だった。
リィンは目元を緩め、微笑む。
「そう。なら、私も一緒に行く」
「お前の要件とやらは?」
「あの子が先。遅くなっても私は困らない」
彼女は最後の酒をグラスに注ぎ、景気づけに呷り。
「さて」
無言でターバンを巻き直しているファルの肩には荷物があった。
準備は整っている。
「行くか」
「行きますか」
ふたつの声が綺麗に重なった。