まだ明確な自己を持たず本能のみで生きていた頃。
自分の生死以外のことなど、心底どうでもよいことだった。
だからだろうか。主と出会ったあの頃の記憶はひどく曖昧で薄い。
それはきっと片割れにしてみても同じだろう。むしろさらに数倍おぼろげかもしれない。セレンは親と呼ばれるものたちに見放され、ぼろきれのようになって死にかけていた。同じ境遇のもうひとり、レナードは檻の中で間近に迫る己の死に途方に暮れていた。自分は傷つくことを恐れ、無関心に、近づくものを殺し続けていた。
死は、いつも近くにあった。
あの手が初めて教えてくれたのだ。
自分たちを包むのは、触れるのは。終焉ばかりではないと。
覚えていることは多くない。
けれど、あの手のあたたかさだけは――忘れない。
あのとき何も知らず、告げられず、ただ一時の幸せを享受するだけだったとしたら、今の自分はここにない。それは忌むべきこと。セレンにとっても。レナードにとっても。きっと。
長すぎる孤独は心を凝り固ませる。
ひとりは冷たく寂しく、心を凍らせなければ耐えられないものだと知っている。
だからこそ、自分などより途方もなく長い間ひとりだった主を、またそれ以上に長い未来でひとりにしてはならないと思った。思うことが、できた。
自分たちの望みを受け入れたことが主に罪悪感を抱かせ続けているのだとわかったのは、ずいぶん後になってのことだ。
それでも後悔はない。あの選択をしなければ、それを理解することもなかったのだから。
出会った頃の記憶は薄い。
けれど現在がある。主がひとりではない現在が。
微かな記憶を掠める、哀しい微笑み。この先、主があれを浮かべることがないのならそれだけで。
それだけで、よかったのだ。
時読み 1
「どうだ。レナードの気配は追えるか」
「……微か……では、あるが」
背を壁に張りつけて、通路の向こうを通り過ぎた哨戒兵をやり過ごす。
人の気配が遠ざかり、また近づいてくるものがいないことを確認してから、意識をこの砦一帯に巡らせ――辺縁にかする程度の微弱な気配を探り当てる。
先ほど探知した時より確実に。
「近づいては、いる」
この砦――イヴァンの南方面を預かる国境警備隊の駐屯地に入って、ようやくレナードの気配が感じられるようになった。それは微々たるものであったが、それだけでも感じられればレナードを探すことができる。
砦にはそれなりの警備が置かれていたが、国境警備につく軍人としては気が抜けているのではと心配に思うほど厳重とは真逆のものだった。これも、作為だろうか。
もしそうであるとすれば、やはりあちらは自分たちにレナードを見つけてほしいらしい。
リィン様は、おそらくここに来ればレナードの気配を感知できるようになるはずだと言った。アレはレナードを餌としてしか使わない、餌として使うなら完全に気配を絶たせているはずはないと。
今のところ、そのとおりに進んでいる。
今自分の隣にいるのは、普段は肩を並べることなどない青灰色の髪の男。
自分の主、リィン様が唯一『友』とする海の一族の長。
リィン様とセレンとは、砦の裏口に潜入したときから別行動をとっている。
4人では潜入行動に向かず、だからといって全員分散するのでは相手が悪すぎた。二手に分かれてレナードを探し、場合によってはどちらかが砦のかく乱に回るのが最も有効的といえた。
最良の組み分けだと理解はしている。
連絡を取るためにもレナードの気配を辿るためにも自分とセレンが別行動をとるのは決定事項。治癒魔術を行使できるふたりを分けるのも当たり前だ。
そうなると当然、このような組み分けになる。
自分とディオン様、セレンとリィン様に。
治癒魔術には大きく分けて風と水、二つの系統がある。
通常魔術と同じように術者がその属性を持っていなければ使えないというわけではない。ただし術者の持つ属性が風か水に近いほど、治癒の素養を持つ確率も効果も飛躍的に上がる。もちろん、能力の優劣を考慮に入れなければの話だ。
氷属性のセレンと、水の上位属性を持つディオン様は水系統。そして風属性のレナードは当然風系統の治癒魔術を使う。
このふたつの属性でない特殊な属性の治癒魔術も存在するのだが、生憎と説明できるほど知識があるわけではない。属性は水からも風からも遠い雷で、素養もない自分には。
話が逸れた。
別に組み分けに文句はない。
リィン様の決めたことに文句などつけるつもりもない。
買い物の荷物持ちは別として、最近セレンとばかり行動しているのを不満に思っているなどということは、断じてないのだ。
「理由はわからんでもないが、また随分と機嫌が悪い」
「……機嫌が、悪いと?」
「悪いな。わかりやすく。おまえは、あいつといる時はそこまで暗いオーラを背負わん」
だからといって明るいおまえなど想像もつかんがな、と、ついでのように付け加えられる。自分にも、想像がつかない。
「暗い……」
「ああ、落ち込むな。湿気っぽい暗さでないだけましだ。おまえのその存在感のある重苦しくも静かな暗さは、ある意味落ち着く」
褒められているのかけなされているのか、よく、わからなかった。
「軽くて煩い、セレンやレナードは落ち着かない。と」
「そう聞こえたか?」
「……」
「別にそういう意味はない」
階下へ続く階段を下りながら、後ろをゆくディオン様をやけに饒舌だと感じる。
リィン様やレナードとのやり取りとしては適当なものだ。しかし自分やセレンに対するものとしては違う。普段たまに会う程度だが、その時すら話をすることも稀だというのに。どういった心境の変化か。
「まったく、おまえたちは面白いよ。あんな理不尽で扱いに苦心する女を主と崇め、生けるものの理を捻じ曲げてまで傍にいることを選ぶ。こういうのをなんというのだったか……そうだ、あれだな」
くくっ、と喉の奥で笑いながら、ゆっくりと噛みしめるように口にされた言葉。
「酔狂」
ちら、と振り返ると、皮肉げな笑みを浮かべたディオン様が目に入った。
そうか。先ほどからのこれは皮肉か。それなら。
「その言葉。そのままに」
貴方に返そう。
貴方こそ、俺たちのことを言える立場ではない。
自分たちの行為を酔狂と名づけるなら、ディオン様はその上をゆく。実よりも興を求める姿勢はそれを示唆するといってよい。だがそれをいうと、自分の主も例外ではない。問題ない。あのかたも立派に酔狂なのだから。
壁に埋め込まれた朱の灯火が影を伸ばす。
炎に倣って揺らめく、大きく引き伸ばされた自分の影がヒトとは異なるものに見えた。自分が捨てて、だが捨てきれなかった自分を思い起こされる。
だが、無駄ではなかった。
捨てきれなかったもうひとつの自分でも、あのかたの役に立てることがあるのだから。
セレンも、レナードも。
思いの形は違えど、至る気持ちは変わらない。同じ境遇と志を抱える同志。
その思いの向かう先であるリィン様が嫌いぬく者の思うままに動かされる原因を作ったのが、自分であるなど。レナードは己を苛むだろうか。
――否。あれは落ち込んでも長く引きずることはない。
立ち直りだけは治癒魔術の構成速度と同じく、早いのだから。