悪夢はいつも、縄と袋を持った人間たちで始まる。

 お母さんは赤い海の中にいる。
 お父さんは帰ってこない。
 ボクは兄弟たちと一緒に大きな袋に詰め込まれ、がたがた揺られてどこかに連れていかれる。狭くて真っ暗な闇の世界、兄弟たちの体温だけが確かだった。
 途中まで一緒だった兄弟たちは、ひとり、またひとりと袋から出され、気づけばだれもいなくなる。
 ボクはひとりになった。

 そこからなにがあったのかはよく覚えてない。
 ただ、とても痛くて、寂しくて、哀しかった。
 伸ばされる手が怖くて怖くて、闇に閉ざされた狭い場所、隅の方で縮こまり震えてばかりいた。

 ああ、そうだ。
 これは夢じゃない。
 夢じゃない、確かな記憶なんだ。

 ただの闇は怖くない。耳が痛くなる無音の闇に心を溶かし、意識を深く沈めてしまうのは心地いいくらい。

 ボクが怖いのは、闇の中のさざめき。
 闇の中で時折漏れ聞こえるだれかの声が、無性に怖い。
 それはボクの記憶にある恐怖と直結しているからだと、ボクに光をくれたあのひとは抱きしめてくれた。こうしていれば怖くないでしょう、そう言って。




 この期に及んでボクはまた、あのあたたかい手を思い出している。

 強くなれたと思ったのにな。あのひとを守れる力を持てたと、思ったのに。
 ボクはまだ、ボクだけが、こんなにも弱くて足を引っ張るお荷物だ。あのふたりみたいに支えになることなんかできやしない。

 それでもボクは性質の悪いことにね。

 あの手がもう一度ボクをこの、悪夢の始まった場所から救ってくれること、信じて疑っていないんだ。

 その手を掴んで、今度こそ離さない。
 遠く離れていても見失わないように。




時読み 2






「無事、だな。レナード」

 聞き覚えのある低い声がボクを呼んだ。
 することもなければ暇つぶしの術さえなかったボクは、横になってぼーっと天井の先に意識をやっていたわけだけど、反射的に飛び起きて。

「来てくれたのファル兄ーっ!」

 で、鉄格子にかじりついた。
 すっかり目が慣れた闇の中、溶け込むようにして存在する黒ずくめのファル兄を認める。

 待ってた、待ってたよファル兄!
 他力本願とか言わないで。ボクだって自分でどうにかできるんだったらとっくにしてる。でもホント、待つしかできなかったんだよぅ。

 場合によっては背筋が寒くなることもあるファル兄の声だけど、今のボクはものすごい安心感に誘われてる。
 だって真っ暗なところにひとりっきりで放置されてたんだもん。
 だれも来ないんだよ?! 人が近づく気配すらしやしないし。
 そんな状態が長く続いてさ、久しぶりに会った自分以外が現れてごらんよ。例え無愛想を絵に描いたファル兄だったとしても、自分以外のだれかに餓えてたボクの目には輝いて見えるね!
 この際ファル兄でいいから抱きつきたい、ものすごく。そんな衝動に駆られてる。あ、ちょっと涙目。

 でもボクの心がこんなにも浮き立つのは、それだけが理由じゃないんだよ。
 だって、だってファル兄がここにいるってことは。
 いるってことは、つまりさ。

「リィンさまもここにっ」
「残念ながら別行動だが?」

 ……来てるんだよね、って言葉はしゅるしゅると喉の奥に引っ込んだ。
 降って湧いたファル兄とは違う声に、緩んだ頬の筋肉が別の意味で弛緩するのを感じる。上がったテンション、急降下。

 なに。
 なんでいんの、コイツ。

「なにいたのディオン」

 声のトーンが2段階くらいがくっと落ちた。わざとじゃないよ。深層心理。
 一番知りたいことを聞く機会が遮られたからだけじゃない。いや、ある意味知れたけど。それをディオンから聞くとかありえない。ていうか、ホントになんでいんの。
 だーれのせいでボクがこんな目にあってると思ってるわけ?!
 ……まさかそれを忘れてくれたわけじゃないよねえ。

「心外だな。助けに来てやったというのに」
「は? なにそれ。頼んでないけどディオンには」
「頼まれないと助けにきてはいかんのか?」

 なにコイツ、白々と!
 自分の失敗のせいでボクがこんな目にあってること、全部無に帰そうとしてない?! せめて謝れよ!

「ディオンはだめなのっ!」
「ん、なぜ」

 む、むかつく……っ!
 なにがむかつくって、余裕綽々で微笑さえ浮かべているのが! 全部むかつくけど特にそこピンポイント。てか、偉そうに腕組みしてんじゃないよ。胸張ってんじゃないよ!

 殴りたい。
 今ボク、無性にコイツを殴りたい。
 でもボクの拳は残念ながら届かない。物理的に。
 身体って正直。拳、震えてるって。拳どころか体までなんて言っちゃいけない。うぅ、涙まで滲んでるのが悔しいっ……! 100分の1でいいから、ボクにディオンの厚かましさを与えてほしい!

「なんででもぉっ!」

 頭ん中でぐつぐつ煮える思考って、だいたいにおいて言葉にならないよね。今だけはボクの思考、全部声になってだだ漏れになっちゃえばいいなんて思う。

 ボクはねえ、この真っ暗で狭っ苦しいクソみたいな場所で、鬱々とアンタへの恨みを育ててたんだよ……。昔のやなこと思い出しまくる場所に連れてこられる原因を作ってくれたディオンへのね!
 孤独ってやだね。
 暗いとこだとさらに上乗せ。負の感情ばっか強くなって、まったくやんなる。ボク、ホントはこんなギスギスじゃないのに。ピュアなハートはどこいったのさ。……行方不明中。

「それはいーから早くこっから出してよっ。中からじゃどーしようもないんだもんっ」

 拳を届かせるために、ここは我慢だ。忍耐だ。耐えなければ。
 そのためにファル兄の呆れ気味の視線にも耐えるのだ。……そっちの方が耐えがたいかもしんない。

「これはまた、厄介だな」

 かつん、と鉄格子を軽く叩いてディオンが言った。
 ここに展開されている魔術構成を探ったんだ。むしろ叩いたのってなんとなくの行動だと思う。だって意味ないし。
 ……ちょっとディオン真面目っぽくなったけど、ボクは騙されないんだからねっ。

 この鉄格子、見た目通りのただの鉄格子じゃない。
 魔術師たちが術式をこんがらがるくらい複雑怪奇に組んでいったシロモノで、魔術をまったく通さない障壁になってる。感知も阻害されるみたい。だってボク、ファル兄がここに来るまで何の気配も感じなかったもん。さすがに今は感じるけど、それでも微かなものでしかない。よっぽど探り探りしないとボクの気配もわからなかっただろうな。さっすがファル兄。勘がいい。
 で、この檻の中には何重にも魔術展開を阻害する『場』が張られてて、さらに魔力を集めることすらできやしないんだ。破る気なんて削がれる削がれる。実際破れなかったし。
 魔術師たちが魔術を完成させる前に実力行使で逃げちゃうっていうのが、まだ可能性はあったんだろうな。
 でもそれ、一番逃げられないタイミングだったんだよね……。

 だってあいつに、ルタの監視下にあったんだもん。

 あれに歯向かおうとか、無理。絶対無理。リィンさまに楯突くより無理(それはありえないけど)。とにっかく無理。いろんな意味で。


「この術をほどくのは俺には無理だな」

 え、今、無理の連呼にかこつけて、さらっととんでもないこと無理って言ったよね?! 

「何それっ! それじゃボクこっから出られないってこと?!」

 試すとかなんとかする前に諦める?! 普通!
 ちょっと、なんとかしてよ! このままなんてヤだからね! 助けに来たっていうなら、ちゃんと最後まで助けてよね!

「うぅっ、ディオンの役立たずーっ!! 無能っ! 呑んだくれ! リィンさまの尻に敷かれてるくせにーっ」
「おい。敷かれていないぞ」
「ううううぅー……っ」

 むかつく。
 ボクの精いっぱいの罵りを軽く流されてるのがむかつくっ。
 いいつけてやる。
 ここから出たら、絶対リィンさまにいいつけてやる! ……って、出られないかもしれないんだけど!

「ディオン様……からかうのは、それぐらいに」
「なんだ。つまらん」

 ファル兄が助け船を出してくれたけど、できることならもちょっと早く出してほしかったな、うん。
 てか、え、ボクからかわれてた?! 出られるってこと?

「だ、だったら早くこの術式解いてよっ」
「だから解くのは無理だと言っているだろうが。ここまでややこしい術の解除はあれにこそ向いている」
「リィンさまここにいないじゃん! どーするっていうのさ!」
「どうするって、それはおまえ、決まっているだろう?」

 うわ。久しぶりに見た。
 ディオンのあのどこか冷めた、でも見る者を魅入らせる笑み。ただでさえ鋭い印象の表情にそんな雰囲気乗せられると、破壊力は計り知れない。……ボクには効かないけどね。

「隅に避いていろ。余波を食らうぞ」

 なんとなくやな予感がしたから、ボクはディオンの命令に従ってぴったり壁に背中をつけた。
 聞くところは聞くよ、ボク。自分の安全のために。


 ものっすごい魔力の嵐が吹き抜けた。


 鼻先、かすった。

 ち、力技だな……! 無理やり吹き飛ばしちゃったよ、こいつ。
 確かに、あんだけ複雑怪奇な魔術も、圧倒的すぎる純粋な力を叩きつけられたらひとたまりもないだろね。
 肩を持つわけじゃないけど、術式を練った魔術師たちの力が大したことなかったってわけじゃない。
 相手が悪かったんだよ。
 リィンさまとルタ以外でディオンに敵うやつなんて、ほとんどいないに等しいんだから。

 それはともかくだ。
 助けてくれた礼は言う。

 でもそれは、後でだっていいと思う。

 それよりも今はね。

「……の」
「ん?」

 聞き取れなかったんだろう。ディオンはかがんでボクを覗きこんできた。
 そこを逃してたまるか!


「ディオンの…………馬鹿ったれーーーーっ!!!」


 渾身の力を拳にこめて、顎を殴り上げた。

 ……手が痛い。
 慣れないことはするもんじゃない。
 でもこれ必要だったから! ボクの精神衛生上!




 ディオンは、わざと殴られてくれた。

 いくら不意をつかれたからって、ボク程度に後れをとるディオンじゃない。不意だって、ホントはつかれてなんかいないんだ。

 そういうところ、ずるいよね。甘やかすっていうのとは違うけど、甘い。ちゃんと怒りを消化させてくれる。
 だからディオンのことは嫌いじゃない。
 嫌いなヤツの傍に居続けるなんてボクにはできないからね。ホントに耐えきれないくらいに嫌いだったら、とっくの昔にリィンさまのところに逃げ帰ってるよ。

「気が済んだならさっさと行くぞ」

 顎の下赤くして言っても、あんまり恰好よくない! 自覚ないかもだけど。んでもって、やっぱ謝んないんだ! せめて一言!

(ディオンが謝ってくれなきゃ、ボクが言えないじゃん)

 ありがとう、って。

 素直じゃないのはお互いさまなんだから。

 こっから出たら、当分逆らってやる。ディオンが謝ってくるまで。
 心に決めた。

 ……って、ファル兄。なんかちょっと笑ってない?!




   2009.10.9  (改訂)2010.3.3