自分の命より大切なものがあるかって質問に、うんと即答するのは馬鹿げていると思うかな。
でもね。ぼくにとってそれは疑うことすら滑稽な、当然の答えなんだ。
最初の記憶に映像はない。
あるのはたったひとつ、身を引き裂かれるような一瞬の激痛だけ。
痛みすら遠い白い闇の中、真上に大きな黒い影が差したところで、ぼくの意識は一度途絶えた。
次に覚えているのは、ふわりと漂う草の匂い。そして背中に触れる手の温もり。
そのあたたかさは信じていた絶対だったものに置いて行かれた絶望を凌駕して、腹の奥に冷たく存在していた重みを取り除いてくれた。
ぼくたちはみんな、あの手のあたたかさに救われたんだ。
自己満足なんかじゃないよ。ぼくたちは嬉しくて、傍にいたいと思ったからこうして今もここにいるんだよ。
ぼくたちじゃ、あなたが今でも思い続けるあの方の代わりにはなれないけど。
ひとりで想うより、だれかに想い出を語る方がずっと心にやさしいと思うのは、ぼくの勝手な思い込み? そんなこと、ないよね? そのだれかに、ぼくはなりたかったんだ。
あなたがぼくたちの絶対なのと同じように、ぼくたちだけは、あなたの絶対でいたいんだ。
ぼくたちだけは、あなたの前から消えたりしない。手の届く場所にいる。居続ける。
それがぼくたちにできること。
だいすきな『お母さん』のために、できること。
時読み 3
積まれた木箱の影に隠れながらのファルくんからの伝達に、ああやっぱりあっちが見つけたかぁと思った。
だってファルくんはぼくより直感が鋭くて勘がいい。その直感には何度も助けられてるけど、先を越される悔しさもちょっとだけあるんだよね。うー。悔しい。
「リィン様リィン様。レナード無事でしたって」
伝わってきたのは『無事だった』っていう、なんともにべもない一言。それだけ。
ぼくらの間でのみ通用するこの便利通信、別に時間制限ありとかじゃないのに。ファルくんからの伝達はいつもいっつも要点のみで簡潔だ。いいけどね。最低限の意志の疎通はできるから。レナードからの通信もあったから。それを伝えるとリィン様は表情を緩めて。
「レナード、なんて?」
「『ほんとにホントーにごめんなさい! 迷惑かけて嫌な思いさせた埋め合わせは後で絶対するから! ディオンが』……だってー」
「あらそう。ディオンがしてくれるんだ。それは楽しみにしておかないとねぇ」
うわぁ。すっごいイイ笑顔。眩しいくらいイイ笑顔。
この分じゃディオン様、またいいようにたかられるね。秘蔵のお酒、今度は堂々と荒らされるね。ご愁傷さま。
これ、本人には教えないでおこう。楽しいから。危惧はされてるだろうけど。だってリィン様常習犯だし……。
退路は確保してある薄暗い倉庫のすみっこで、うふふ、あははと和やかムードを醸し出してたら。
「あー。なにかを楽しみにしているところ、悪いが」
そんな声と共に、ぼくたちに人影が降った。
……全然気づかなかった。
気配消すの上手いね。や、ぼくたちの気が抜けてたっていうのがもちろんあるけど。
あー、やっちゃった、って感じで、リィン様と顔を見合わせる。一応声潜めてたんだけどなぁ。でも見つかったちゃったもんはしょうがない。
ぼくたちの目的は砦をどうこうするってわけじゃなかったから、駐屯兵とかに会ったら面倒くさくてやだよねーってことで、こそこそ嗅ぎまわってたんだよね。警備甘くてどっちかの組がかく乱するまでもなかったし。
座り込んでるぼくたちをごくごく自然に見下ろすナイスミドル。明らかに高位の武官だし。
声だけだったら穏やかこの上ないんだけどね。雰囲気がまた、ファルくんとは種類が違うけど静かな威圧があるんだよ。一筋縄じゃいかない空気を惜しげもなく放ってくれちゃってまぁ。
「きみたちはどこから入り込んだネズミかな?」
あれ? 黒髪に黒い目……って?
珍しいけど絶滅危惧種ってくらい珍しいわけじゃない。
でもなんだろうね、すっごい何かが引っかかる。何に引っかかるのかわからなくてすっきりしない、こう、喉まで出かかってるんだけど出てこなくてむず痒い感じ。なんだろこの嫌な感じ。
「こちらでしたかエルディアード卿!」
いかにも探していた人物を発見した部下と思われる人が発した、名前に。
むず痒さは霧散したね。うん。
「わー。すっごい、やな偶然ー……って」
あ、リィン様固まってる。最初から気づいてたのかはわかんないけど固まってる。
「お。見つかったか」
「まったく……っ、相変わらず無駄に行動力があるんですから! 将軍になられた自覚本当にあるんですか? ……この者たちは」
「侵入者だ。おそらく」
「……はぁ」
「赴任して早々これとはね……国境に位置する砦としては致命的すぎる。前任者の怠慢も甚だしい。一刻も早く警備体制を見直さなくてはなぁ」
なるほどー。こんな抜け目なさそうな武人がいるのに、なんでこんな穴だらけの警備なのかなーって思ったけど、そういうこと。入り込む方としてはありがたかったけどね。杜撰な警備。
でもさ。
なんで将軍サマがこんな倉庫をウロウロしてるんだかね。視察巡回? 倉庫を?
「確かに……こんな一般人が迷い込めるような状況は、すぐさま改善する必要がありますね」
「こらこら。一般人? 外見なぞいくらでも取り繕える。それで油断して、敵に好機を与えるつもりか?」
「うっ……それは…………肝に銘じます」
ぼくたちのこと、まったくお構いなし。
ああでもデジャヴ。たぶんぼくたち、いつもはそっち側にいる。すんごい身に覚えがあるもん。やだなぁ、こういうマイペースな武官。性質が悪くて。しかもそれが将軍とかホントやめてほしい。
(でもこれ絶対……)
ちら、と向けた視線の先、リィン様はなんともいえない微妙な顔で黒髪の将軍サマを凝視してた。……この状況なんとかする気ないねこのひと。
わかったよぅ、ぼくがすればいいんでしょー。そうとなったら先手必勝。まずは穏便に!
「はーい。ぼくたち通りすがりの一般人でーす。出口わかんなくなっちゃったんでぇ、案内してもらえませんー?」
「……卿。怪しすぎます」
「ほらみろ。だから言ったろう?」
…………あれ? 失敗?
一般人を心がけて、にこやかに主張してみたのにー?
「……じゃ、逃げようか」
「うー。余計怪しまれちゃいましたしねー」
こそっと耳打ち程度の会話だったのに、将軍サマは耳聡い。
「逃げるということは、やましいことをしていたという自覚がある、と。そうなるとこちらも余計に逃がすわけにいかないのだがね?」
「えーそこをなんとか見逃してよぅー。オジさーん」
「それは無理な相談だよ青年。あとオジさんは余計だ。訂正しなさい」
「いえ卿。老人に片足を突っ込みかけている立派なオジさんな事実は、そろそろ認めた方がよろしいかと」
言うねーおにーさん。涼しい顔で。相手、将軍サマだよね?
あ。将軍サマ、すっごい見覚えのある笑顔でおにーさんの耳引っ張った。……あれ、痛いよね。うん。同情する。
うわぉ。そんな展開になってる間に、なんっかぞろぞろ人集まってきたー。皆さん帯剣してらっしゃるし。せっかく確保してた退路、塞がれてるし。
ていうかさ、こういう事態になってもまだ座ってるとか、ホントに逃げる気あるのリィン様ぁっ。いくらぼくでも途方に暮れるよその行動。
「セレンよろしく」
「……わかりましたよぉ」
あー……その抗う気も失せる笑顔。
そうですか、その方法をご所望ですか。
確かに一番効果的な気もするけど……いいんだこの人たちに見せちゃって? ……いいんだ。仕方ないなぁ。
身体がばらばらにされて組みあげられるような、でも慣れた感覚。
別のものに変わるんじゃない。元に戻る、たったそれだけ。
本来のぼくに――白狼に。
「狼、だと……?! 何の魔術を使った!」
将軍サマの余裕がようやく崩れて、狼狽が周囲に伝播する。だめだよねぇ、上に立つものがそんな風に取り乱しちゃ。
でも驚いて当たり前、なのかな。
『人』が『狼』に変化する、その様を目の当たりにさせられたら。
でも残念はずれ。これは魔術じゃない。完全に魔術じゃないともいえないけど……でも違う。
これはぼくの『本当』だから。
ヒトの姿を模った僕が嘘というわけじゃない。あれはあれで、リィン様の傍にいる手段のひとつだからね。
ぼくたちは選択をして。
終わらない命とヒトの姿を手に入れて。
自然の理を捻じ曲げてまで、貫きたい志があったんだよ。
「よ……っと」
リィン様に容赦なくむんずっと背中の毛を掴まれた。う、そこちょっと痛い。思っている間に、背中に体重が乗る。
重心をぐっと後ろ脚にかける。
ただそれだけの動作で、周りを囲んでいる兵士たちが瞬時に緊張する。そこに気味の悪いものへ対する恐れを感じた。
向けられ慣れた感情だ。今さら何とも思わない。
でもそれがリィン様に向ける感情だったとしたら――ぼくは許さない。
前足で思い切り地面を蹴り、跳躍した。
ぼくたちを包囲する人たちの頭の上を飛び越えて。その中でも黒髪の上を通ってやったのは単なる嫌みだよ。将軍サマ。
外へ向かって駆ける途中で何度か兵士とすれ違ったけど、みんな一様な反応だったね。目をまん丸にして剣に手をかけようとする――そこまでしかぼくは見えない。だってその次の行動を確認する前に通り過ぎちゃうから。
追いかけようっても、ぼくに追いつこうなんて考えるだけでも無謀だよ。
ひとを乗せてるとはいえ、人が狼の全力疾走に敵うわけがないんだから。ま、ぼくだってファルくんのスピードには敵わないんだけどさ。
「私が手を出せないと知っていてわざわざ連れてきたのじゃないでしょうね、あの変態外道……やることがいちいち陰険……っ」
……そんな呪詛みたいな言葉がぶつぶつ背中から聞こえるのにはちょっと耳をふさごうと思う。
だって怖い。この姿だと聴覚が鋭くなる分、余計に。
それほど時間をかけずに空の下へ出たぼくは、石造りの塀を飛び越え草地の上に降り立った。
意地が悪いよね。
そこに待ってるっていうの。
会わなかったら僥倖。そのくらいには思ってた。
「ひさしぶりー」
暢気に小さく手を振っている柔和なその顔、ひさしぶりに見る気はしないんだ。毎日見ている顔と大きな違いはないから。
「出たな変態」
リィン様が吐き捨てる。
見えないけれど、きっとものすごく嫌ぁな顔をしてるんだろう。
「いやだなぁ、ルタって呼んでよ。傷つくよ」
鷹揚に笑う彼が宿す色はリィン様と同じ、でも微妙に異なる金色髪と紫の瞳。
でもそれ以外のふわっとした笑顔とか、顔の造形とか、雰囲気とか。そんなものは可笑しくなるほどそっくりで。
ひさしぶりに見ると、思い知らされる。
――あぁ、やっぱり、ふたごなんだなぁ……って。