俺たちの故郷はどこにもない。この世界のどこにも、もう存在しない。

 帰る場所を失ったことを嘆くつもりはない。
 もとより帰る術を失った身。咎を負い、追放された身。
 そのような身でどこへ帰るというのか。

 ただ、いつかこの身が無と消える理までも共に消されてしまったことだけが、歯痒かった。
 それでも。あの男に逆らう選択を後悔したことはない。ただの一度も。何度自問を重ねようと、聞き返されようと、それは揺らがぬ絶対。

 翼を引き抜かれた時の己を失わんばかりの痛みも。
 力のほとんどを奪われ、今は何の意味も成さない理のために生かされるだけの無力感も。

 新たな『混沌』の再誕を静観する未来の先で待つ虚無には勝てはしまい。

 次に生まれる『彼女』は俺のことなど覚えていない。
 ようやく持ち得た心もなくし。
 違うモノとなった無垢な彼女は何の疑問も持たず、また血の海に染まっただろう。同じように役目を果たせなくなり無へと帰した、あれの以前の『彼女ら』と同じように。

 だが俺の離反と、そんな未来が訪れる機会が永遠に失われたことにはなんの関係もない。
 あれが、俺たちが無への回帰を免れ、未だ命を繋いでいるのは――あれの片割れの、暴走といえる行動が招いた結果だ。

 やつは守りたかったのだろう。
 理という、俺たちの絶対を崩壊させてまで。




時読み 4






 最悪だ。
 ファルスの背から遠目に見える状況はその一言に尽きた。
 心の底で深いため息をつく暇もなく、俺たちは渦中へと飛び入った。

 ほっとしたようなセレンの様子から容易に想像できる。
 これはもう、すでに心臓に悪い会話が繰り広げられていた。

 ふたりから必要以上に距離を置いていたセレンの判断は正しい。そのふたりの間にも、会話をするには不適当な距離が置かれていたが。これも正しい。

「ああ……久しぶりだねディオン。あれ、その後も会ったっけ……? まぁいいや。どっちでも」

 最後の言葉にだけ、穏やかさの中にほんの少しだけ物騒なものが滲んだ。

 青の強い片割れのものと異なる、赤みの強い紫の瞳。
 笑んでいるはずの瞳には、這い上がるような冷たさが在る。

「……今度は、邪魔するんだね?」

 ぞく、と。
 背中に悪寒が奔った。

 俺たちを巻き込んで己を永遠の牢獄に放り込んだ張本人は、そう言ってくつくつ笑う。言い知れぬ寒気に襲われる。

「邪魔しないでほしいんだけどなぁ」
「邪魔をするもなにも。俺は、貴方がなにをしたいのかも知らないのですが。秩序のお方」
「あ、聞きたいの?」
「遠慮しておきましょう。聞いたら聞いたで気分が悪くなりそうでしてね」
「そう? 相変わらずつまらないね。きみ」
「つまらなくて結構です」

 それで俺への興味を失ったのか、そもそも俺に興味など持っていないのか。

「よかったね、お迎えが来てくれて。餌になってくれてありがとうキツネくん。感謝しているよ?」

 俺の後ろに隠れていたレナードがびくりと体を震わせる。
 隠れるのはいいが……コートのベルトを握るのはやめろ。いざというとき身動きをとれなくするつもりなのか。

「なんとなく目をつけたイヴァンの国境警備隊がね、ちょうどいい感じに腐れてくれていたんだよね。ルディには嫌がられるだろうなぁとは思ったんだけれど。これを使ってキツネくんあたりを餌にしたら、ディオン経由で絶対来ると思ったんだ」
「囮に使われるのはいい気がしないのですがね。俺も。これも」

 勝手に利用して巻き込んで。
 やつに巻き込まれるのは過去のあの一度で十分だというのに。

 あの所業を許すことはできない。許そうとも思わない。そもそも、自分とて許せる立場にはない。

 ――だが、この男はもう……。

 いつか自分もこのようになってしまうかもしれない。
 そう思うと憎み抜くことは――できなかった。

「なにが、したかったの」

 やつは主人に呼ばれた犬のように喜色全開、満面の笑みを浮かべた。
 硬く素っ気ない声とはいえ、片割れから話しかけられたことがよほど嬉しかったのだろうか。

「ルディに会いたかったんだ。さっきの話はオマケ、かな。……で、やっぱりダメ?」
「……なんの話だ」
「さっきあなたが聞きたくないって言った、くだらない夢想の構想への協力要請。この上なくくだらない夢想の」

 冷えた瞳を己が分身にひたりと向けたまま、つまらなそうに答えて。それで話の方向性が見えた。
 発想になんの進歩もないことに少し呆れる。
 だがそれも、…………。

「僕はそれが最善だと思うんだ。それにね、夢想といってもきみが協力してくれれば夢想は現実になる。前に言ったよね。これは、僕らの義務だって」
「私やディオンの最善は現状維持。それ以上は望んでいない。望んではいけない。そんなものは義務なんかじゃない」
「頑固だね」
「おかげさまで」




 うりふたつのふたりは相容れない。
 同じであって、秩序と混沌という対極の二相にあるふたり。

 俺は、見てきた。
 このふたりの前の、その前の、そのまた前のふたりを見てきた。その生きざまと滅びを。

 相容れない相を持ちながら、なによりも固い絆で結ばれていたふたりたちを。

 そして、ふたりを滅びへと誘うものを。

 このふたりに滅びはこない。
 彼らを滅びへと誘ってきたものが代わりに奪ったのは、絆。




 実のない応酬を破ったのは、よく通る声だった。

「貴様だな? 我が軍の兵を使って妙な行動を起こしていた、というのは」

 振り向くと、砦の入り口からぞろぞろと湧き出る兵の姿が見えた。
 ……潮時だろう。

「あー……なんか、面倒なのがきたなぁ……」

 剣呑な雰囲気を含む細められた赤紫の瞳が、ゆるりと闖入者に向けられる。
 その視線を阻むように。

「手を出すつもりなら」

 水の如き静かな、しかし苛烈な威圧。

 ――懐かしい。

 それは決して良い方向の懐かしさではない。

 昔は常にこのような目をしていた。
 何者をも寄せ付けない、なにも映さない硝子の目をしていた。それでも今は底に怒りを沈めている。なにも映さないことは、ない。

 それほどに人間らしくなったのだろうか。あれも、俺も。

 なぜ庇う、と一瞬湧いた疑問は、先頭に立つ黒髪の男を見て消えた。
 あれがいては譲れないのに無理はないだろう。

「わかってるよ。出さないよ。僕だってルディに嫌われたくないもの」

 これ以上嫌われることはないだろう、そう思いつつ、やつを哀れに感じた。

 俺は知っている。
 こうなる前のやつが、どれほど片割れの妹に心を、愛情を注いでいたのか知っているのだ。

「イェルも待たせていることだし、僕はそろそろ退散するよ。ワンコとニャンコも。またね」

 さすがにレナードより肝が据わっているふたりは、動揺を感じさせない態度で意識をやっただけで口を開きはしなかった。
 賢明な対応だ。下手に反応を返すのは面倒を引きこむことだとよくわかっている。

「愛してる。ルディ」

 にこり、と。
 大切なものを慈しむまなざしを写し身に向け、魔術を一瞬で構築し展開した。
 腕利きの魔術師でも使える者はほとんど存在しない、転移魔術。準備していたにしてもその構築速度は流石といえる。

 やつが最後に見せたのはひどく優しい微笑みだった。双子の妹にのみ向けられる、甘やかな。




 そして後に残ったのは。

「……事態を綺麗に残して行ってくれたな」
「穏便に終わるとでも思った?」

 重い空気と、臨戦態勢の国境警備兵。

「貴様らはあの男の仲間か? いや、仲間でなくとも構わん。その顔――関わりがあるだけで十分だ。身柄を預からせてもらおうか」

 そして、見るからに腕の立ちそうな壮年の武人の低い声。

「ああ言っているが」

 セレンのようにとまではいかないが、もう苦笑うしかない。聞かずとも答えは決まっているのだから。
 彼女はちらと黒髪の男に視線をやったあと、腹の奥に溜まったものを吐き出すように長く深い息をつき、まぶたを閉じた。

「…………撤退」

 当然。
 それだけを言った。

「甘いな」
「あなたほどじゃない」
「いや、俺もおまえほどじゃない」

 自分の中に甘さがあるのは知っている。
 しかし、この女ほどではない。絶対に。


「我らの姿を隠し盾となれ」


 力ある言葉を音とした。
 咎に堕ちさえしなければ、音を鍵としなくとも行使できたものだったが……そこまでは望まない。

 利用するのは空気中の水分。
 水は俺の属性のひとつ。隷属属性であれば魔術として術式を作らなくとも、手に取るように操ることは容易い。


「出づれよ、霧雲」


 視界を遮る深い霧が国境警備兵たちを包む。
 兵たちが俺たちを見失っている間に、こちらの準備は整っていた。

「またお願いね、セレン」
「はぁーい任されましたぁー」

 仲睦まじく交渉完了しているその横で。

「…………」
「頼むから振り落としてくれるなよ」
「ディオン、それもの頼む態度と違うからね。わかってるよね」

 こちら側の空気はお世辞にも明るいとはいえない。それでも。




 欠けていたひとつが、変わらない姿で隣にある。
 あのとき託された銀色の輝き。それだけで。

 俺はきっと救われた。

 変わらないものが変わらず傍にあることが、こんなにも救いになると――

 おまえに教えられたんだよ。
 ルアルディ。




   2009.11.8  (改訂)2010.3.4