『え、……麻痺煙幕?』
『そ。俺のお手製。あ、ちゃんと師匠監修入ってるかんな? 効果は2、3時間てとこだ。無力化するには長すぎるくらいだろ。ただ、前に一回兄貴の前で使っちまっててさ、警戒されてんだよな、絶対。だから平静失ってつっこんできてくれでもしないと使うの厳しいと思う』
自分の口から物騒な単語がこぼれたことにまったく頓着してないらしいイムザは、早口でそう言いながら片手に一つずつ乗せた布袋のひとつをおれに差し出した。
『俺のすることは全部、囮。だから、それ使うなりなんなりしてなんとかうまくやってくれ。俺が余計なことして邪魔するより、その方がよっぽど確実だよ』
なんとかうまく、って……綿密に作戦練る余裕ないのはわかるけど。さすがにぶん投げすぎだろそれは……。
イムザ手製の隠し玉は、なるほど、とんでもない威力を発揮してくれた。
いきなり麻痺煙幕とかいう言葉出されて意外でビビったけど、うん、そうだよな。こいつ一応薬師なんだ。毒物の扱いに長けてて当然だよな。薬を扱うなら毒に詳しくないと話にならないもんな。過ぎた薬が毒になるのと反対に、毒を薬にすることもあるんだし。
兄貴はイムザに再三に渡った脅迫をしてたらしいけど、グループの組織としての力を必要としてるわけじゃなくて、欲しいのはどうもイムザ個人くさい。
復讐対象について、箱入り坊ちゃんて兄貴は言ってた。その割には戦線に出てたっていうんだから、後方に引っ込んでたとは思う。それでも武家の人間だとは推察できる。
それ以上の相手の詳しい家格とか警備状態はわからない。
兄貴は、正攻法じゃ手出しが難しいって考えるくらい守りの固い人間に復讐したくて。それで、エルシダに戻ってきたところで昔の弟に利用価値があるのを知って手駒に加えようとした。ざっくり言うとそういうことらしい。
あぁ――そんな兄貴の事情についての憶測、今はどうでもいい。
倒れているのは五人。
兄貴の姿がどこにもないんだ。
煙が晴れて数を確認したおれは、舌打ちと同時に新しい魔術を構築した。
探索に引っかかった兄貴は一つ隣の細路地で、イムザに向かって突進していた。どこからそこに抜けた――くそっ、それも今はどうでもいい!
背後から迫ってくる兄貴に気づいたらしく、イムザは後ろを気にする素振りを見せた。速度は上がらない。それ以上、上げられないんだ。
足止めしないと確実に、人の往来に紛れる前に追いつかれる!
いくつかが無駄撃ちになるのを承知で、あまり得意じゃない炎の魔術を兄貴に向けて撃ちこんだ。少しでも脅威に思われるよう見た目を派手に形作った炎球は、全部綺麗に避けられた。精度調整かけたってのに……一つくらい当たれよ!
兄貴は目下の獲物に目標を定めたまま、魔術の飛んできた位置――おれの方を見てせせら笑った。この程度の威嚇しかしてこない隠れたままの魔術士に構う気はないってか。
(だったらもう――)
決意する前に、腐食して錆びの浮いたベランダの手すりに手が掛かっていた。
着地に風の魔術の助けを借り、通過線上に立ちはだかったおれと、おれの握るささやかすぎる武器を一瞥し、兄貴は明らかに雑魚を嘲笑う強者の傲慢さで剣の柄に手をかけた。
風が、重く、唸りをあげる。
白刃が届く刹那。
即時展開で可能な限り物理耐久を引き上げた防御壁がおれを守った、……んだけど!
「ぐ……っ! っつ」
威力、殺しきれない!
背中が強かに地面に打ちつけられ、肺の中の空気全てが体の外に押し出された。
砕かれて粉々になった魔力の残滓が、ばらばらと地に落ち、霧散する。
構えていた木の棒は真ん中で綺麗に断ち斬られた。役に立たない木クズになり果てた棒を放って上半身を起こそうとしたところで、……剣先がひたりと喉元に突きつけられる。
……まずい。
正直、一撃で追い込まれるとは思ってなかった。
「よく受けれたな、チビでひょろっちい魔術士の分際で」
腹の底から響く声が、ねっとりと粘着質に背中を撫でる。
二歩。
たったそれだけの距離しかない。獰猛な獣のように褐色の瞳をぎらめかせ、おれを見下す兄貴との距離は。
だれかと命のやり取りをした経験はある。誓って嘘はない。
でもそれはアイザックっていう信頼できる壁に守られての経験だ。こんな風に、おれの命を惜しむ期待の望めない相手に、接近戦で絶体絶命の状況に追い込まれた経験は――残念ながら、なかった。
突きつけられた剣先が軽く押しつけられる。ちくりと棘に似た痛みが走り、喉元を生ぬるい液体が細い筋になって垂れるのを感じた。
「隠れるのをやめて俺の前に出てきた根性は認めてやる。運がなかったな、魔術士。依頼主があんなへなちょこでよ」
片腕で振るうようにはできてなさそうな質量の大剣が、右腕だけで高々と掲げられた。
「生かしといてまた邪魔でもされたら鬱陶しいからな。あばよ、クソガキ」
そんな台詞をともなって先端が最大限に遠のいた瞬間、横に転がって間合いから逃れた。
降りおろされた剣の軌道がちゃんと修正されてこっち向かってきたのがおっかない! よく今のも避けれた、おれ!
複数対象の捕縛魔術で魔力をだいぶ消耗した。無駄撃ちになった炎の魔術にも、それなりに食われた。
攻撃を魔術壁で防ぐにしたって、あんなの何度も受け続けられない。魔力がもたない。いや、それより兄貴の動きについていけなくなるのが先だ。力やスタミナっていう全体的な身体能力が劣ってるばっかじゃない。経験の差が開きすぎてる。
でも、やるしかない。持ってる全てのおれの力を防御と回避に注いで、凌いで凌いで、隙を見て逃げる。そうしないと殺される。
ベルトにつけてたウエストポーチから投擲用の短刀を一本、逆手につかんで握り込む。あくまで投擲用だから守り刀にもならないだろうけど、ないよりマシだ。
時間的に考えて、ジェフリーを連れたイムザはもう完全にここから離脱できたはずだ。後ろに守らなきゃいけないものはない。
できうる最小の損害で。
自分が撤退することだけを考えろ。
そんな思惑を見透かすように、白刃が肉薄した刃を芸なく防御壁で受け止める。圧されてひっくり返らずにすんだのは、兄貴の勢いが初撃に比べればまだ軽かったからだ。
一合、二合。続けて三合。大きく後ろに跳んで避わして、また一合。
逃げる隙なんてありゃしないぞこれ……っ! 防戦しかできねえ……っ!
「そんなオモチャでいつまで耐えられんだろうなぁ!?」
剣戟を、捌いていなす。
力の弱いおれが身につけたのは、相手を倒すんじゃない守りの技術。
圧倒的な力で叩き潰そうとしてくる相手にはまるで通用しない、所詮、小手先でしかない。そうだ。ウェインのやつと相対したときと同じで、ちょろちょろネズミよろしく逃げ回る――おれにはそんな戦い方しかできない。
魔力の壁に体捌きも併せてなんとか受けるなり避けるなりできてるけど、……魔力が、いい加減底をつく。集中力も限界だ。
せめてこんな投擲用のナイフじゃなくて、もうちょっと長物があったらよかったのに! これじゃ短すぎだし、なにより脆い! あぁもう完全ひしゃげて……ちょ、ひん曲がったーっ! なんでおれ自分の武器、宿に置いてきた!
体重の乗ったくっそ重い横殴りの一撃をしゃがんでかわす。
その勢いづいた大剣の重みが兄貴から、俊敏な連続攻撃の手段を奪った。
おれは再びウエストポーチに手を伸ばし、手探りで触れた最後の短刀の柄をしっかと握りこむ。
雷電を纏わせ、回り込んだ背中に投げつけた短刀はしかし――完全に存在を読まれて避けられた。
ちくしょう……当たれば御の字、程度にしか思ってなかったとはいえ、できればあれを食らってほしかった。一時的なショックしか期待できない威力ながら、そこらの物陰に滑り込むくらいの時間は稼げただろうに。
手持ちの隠し玉は尽きた。魔力にはじわりと枯渇がにじ寄る。残った武器はひしゃげた短刀一本きり。純粋な剣同士の力勝負じゃ一撃K.0.間違いなし。
明らかに、おれに分がない。嫌な汗が背中を伝う。
さあ、どうする……?
「魔術の次は剣、その次は飛び道具か。多芸だなぁおい」
楽しそうに斬り込んできた一撃を、初めて魔術壁なしで受ける。
くっそ、これじゃやっぱ重すぎて……っ!
笑えるくらいあっけなく押し負けて仰向けに転がる間際、蔓の拘束魔術を片足に限局して展開させた。足をすくって、転ばせるつもりで。
でもそれを、兄貴はうるさそうに払いのけるだけの動作で引きちぎり。
とっさに前へ出して体をかばった左腕から。ぱあっと朱が閃いた。
一瞬遅れて、灼熱。
激痛が肩から上へ駆けあがり、脳を痺れさせる。
血の流れ出る刀傷を押さえ、体を縮めようとした鼻先を、ぴしゃりと剣先が捉える。
攻撃に、治癒に要する魔力も。集中力も。それらがあったとしても使わせてくれる慈悲なんて、この人には、ない。
「それだけで済ませてやったって……頭の回る魔術士サマならわかるよなぁ?」
おれとは対照的に軽くしか上がってない短い吐息混じりに、兄貴が言う。
「わかったなら素直に答えろ。誰に教わった」
「なんの、はな……うぐっ」
話だ、と問おうとした喉が、胃の斜め下に抉るように沈んだ衝撃に意味を持たない音を鳴らす。
催嘔感に、背中を丸めて抗う。
たぶんそのまま吐き出してしまった方が楽になれる。それでも、おれのなけなしのプライドが、この人の前で反吐をぶちまけることを許さない。
「答えだけを言え」
頭が地面に押しつけられた。
ざり、という音を骨振動で認識する。
なんとか開いた目に飛び込んできた左腕はどす黒い血に染まっていた。腕を斜めに走る傷口から湧き出るなかなかに派手な出血量を視認して目眩がした。ぬるい鉄の臭いがまた、嘔気を助長させる。この、身体をにじられる最悪な気分――久しく忘れていた。
「あれだけの動きして、まさか素人じゃねぇだろ。師は誰だ。答えろ」
靴底と地面に挟まれた頭蓋がさらに圧迫される。
こんな状態でまともに答えられるか!
このまま頭が踏み潰されるんじゃないかと思うくらいの重圧のせいか、それとも脳の防御機構のおかげか、腕の痛みがひどく遠い。遠く――ふつりと途絶えるように、消えて。
「てめぇの構えと太刀筋、足運び。全部。俺の師と似てやがるんだよ! 師はブレイドだろう?!」
「ちが、……っ!」
「いいや違わねえ。絶対に、てめぇは俺の弟弟子だ」
鬱屈した感情が、腹の奥でふつふつと温度を高くしていく。
……今日は朝からばあさんのきょうだい弟子だの、今度は兄貴の弟弟子だの。
うるさい。
うるさい。
そんなことも。そんなやつも。
おれは知らない! 知ったことか!
不意に頭が軽くなった。圧力を感じない頭に違和感さえ覚える。ずくずくと奥からせり上がるような重い疼きを抱えたまま、ゆるりと頭を持ち上げる。生物としての生存本能が、この間に少しでも兄貴から遠ざかれと考える頭と命令した。そんな本能と裏腹に、体は右肘を張るくらいにしか動かない。全身、特に腹の芯の部分が鉛みたいだ。自分の貧弱な体と打たれ弱さが嫌になる。
こんなとき、アイザックなら。痛みもなにもかも気合いで圧して、満身創痍になっても剣を放さないんだろう。
手の中にあったはずのひしゃげた短刀は既にない。痛みに負けていつの間にか手放してしまった。身体を這いつくばらせたまま視線をさまよわせると、おれの血を吸い込んでどす黒くなった地面に鈍色の小さな刃が落ちていた。あんな壊れた短剣で、どうやってこの状況を打開しようっていうんだろう――卑屈な笑みが湧いた。
「笑う余裕があるならほったらかしてもうっかり死んじまう心配はねぇな。ま、その程度じゃ死にたくたって死ねねぇか」
上から兄貴の冷めた声が降る。おれの生死なんて歯牙にもかけてなさそうな声。
そうだ。死ねない。
「……イムザのやつが魔術士を味方につけてたとは予想外だったぜ。お前いくらで雇われた? それとも慈善事業? ま、なんにしたってイムザにいいように使い捨てられたってことに変わりねぇさな。可哀想になぁ、イムザのやつ、お前を見捨ててとっとと逃げちまいやがってなぁ」
死んでたまるか。こんなところで。
「なあ、お前俺らの仲間になれよ。体力はないが接近戦のできる魔術士なんて滅多に転がってるもんじゃねぇから重宝してやるぜ? あのブレイドに見込まれて教え込まれたんだ。少なくともあそこで伸びてる連中より役に立ってくれるだろ?」
おれだって。
「弟は、兄貴の命令に従うもんだぜ」
潰されたくない。
穢されたくない。
日の当たる世界で積み上げた、おれが費やした時間すべて。おれの世界。
こんな――自分勝手な人に!
(そう。『おれ』は諦める気なんてさらさらないんだよね)
声が聞こえた。
おれの知らない……でも、よく知ってる、おれ自身の、声。
(『おれ』が何なのかなんて情報、今、必要?)
おれなら絶対しない言い回しで、『おれ』はおれを置いてきぼりに言葉を紡ぐ。
(ねぇ、知ってる? 今一番必要なものは、本当はまだ手の届く場所にあるんだよ。あっち側にあるせいで自覚できないだけ。意識してごらん。手伝ってあげるから。あぁ……今は、全部は無理みたいだけど。それで何をすればいいのか……『おれ』には、わかるよね)
それきり、現とは思えない場所から聞こえてきた声は遠ざかるようにして聞こえなくなった。
どこからか湧き上がったか得体の知れない、スズメの涙みたいな魔力を残して。
出所なんて関係ない。
さっきのあれが、なんだって構わない。考えるべきなのはそこじゃない。
できることを考えるだけでいい!
他のことはなにも考えず、ただ術式を編む。兄貴がなにかを喋っている声も聞こえない。
詠唱型魔術士は「音」で魔力を導くゆえに、術式構築から展開までのプロセスを隠すことが難しい。一対一で常に挙動を注視されていればなおのこと。
でもおれは、魔力そのものに働きかける操作型の魔術士で。魔術行使のどのプロセスにも詠唱を必要とせずにすむ。
だから、おれを見ていても、兄貴は気づかない。
音もなく、声もなく。おれが魔術を編んでることなんて。
選択した属性は、雷。
湧き上がった魔力全部を注ぎ、おれが抵抗の意志をなくしたと思って油断してた兄貴の剣に向け、雷をたたき落とす。
ばちん、と音が弾けた。
避雷針の役割を果たした剣が、所持者の体に電流を駆け抜けさせたんだ。
声も上げず、兄貴がゆっくりくず折れる。
取り落とされた剣が、がらんと重たい金属音をあげる。体は、ぴくぴくと電気信号による痙攣を繰り返すだけだ。起きあがる気配はない。
「しばらく、そのまま伸びてろよ……っ」
失血だけじゃなく魔力切れで昏倒しそうな頭と体を叱咤して身を起こす。
力を入れた左腕からちょっとやばいカンジに血があふれてきたけど、大丈夫だ。動脈までいってない。動脈やられた人間がそれこそ赤い噴水みたいに血を噴き出す色は、今みたいに赤黒くない。
幸い痛みは感じない。それがいいことなのか悪いことなのかつかない頭が「止血に使う時間はない」と判断し、罅の刻まれた石壁に体重を預けて体を引きずる。
一刻も早く、ここから離れないと。
使えた魔力はごくわずかだった。
音は派手ながら、それほど強い雷撃を落としたわけじゃない。いつ動けるようになっても不思議じゃない。
重い体を引きずって、十歩ほどを進めたときだった。
背後に黒炎に似た殺気を感じた。
巨躯がゆらりと揺らめき、立ち上がる。
……嘘だろ。
早すぎる。どこまでタフなんだよ……っ!
「ころす」
無感情にそれだけを呟いた兄貴がばかでかい剣を拾い上げ、ゆっくり大股に歩み寄ってくる。
血走った目。据わった声。
笑みの形をとった口から洩れる、生ぬるい吐息。
失血で一時的に弱まっていた心臓が、早鐘を打つ。
死に物狂いで離れた距離が、一歩、また一歩と縮んでいく。もうおれの足は動かない。
動かさないといけないのに、体はもう、これ以上の悪あがきは無意味だと、「諦めて楽になってしまえ」と言っている。血の足りなくなった頭もまた、「そうなのかもしれない、諦めろ」と囁く。
万策尽きた。相手が悪かった。おれは十分よくやった。だからもういい、……って。
本当に――?
本当に『もういい』と、おれは本気で思ってる?
本当に、そのときの最善を選んで、できることは全てやったのか?
そんな、渦を巻くだけでなんの実りも生まない思考に沈むおれの頭めがけて、兄貴が高く腕を振り上げた瞬間――
体が勢いよく後ろに引かれた。
慣性の法則に従い、体がバランスを失って地面に尻をつくまでの間、おれの目は確かに捉えた。
おれと入れ替わりに真後ろから飛び出した誰かの握る細身の黒い剣が、とても拮抗できるとは思えない兄貴の大剣の刀身、その根本を捉え。火花も散らさずしなやかに受け流す、その様を。
「次は自分が相手になろう。異論は認めん。ホーク・ディケンス」
陽光の射さない裏路地の影。
溶けるような漆黒を纏った補佐官の後ろ姿に霞がかかり、ふつりと闇が落ちた。