遠くて近い――そんな矛盾した距離を見通せない場所から、誰かがおれを呼んでいる。呼んでいる、んだろう。重々しい鐘の残す響音に似た高周波の音波が邪魔してよく聞き取れない。
 眠い。ちょっとやそっとの意志の力じゃ太刀打ちできない睡魔に飲み込まれて、抜け出せそうにない。……昨日寝たのは何時だっけか。次の日の講義に差し障るって思いながら、つい本を読みふけって日付が変わったのに気づかないなんてこと、やらかすたびに二度とするかって後悔する。
 呼んでるのはオースティかベルテに違いない。おれを起こしにきてくれるのなんてその二人以外あり得ないんだから。アイザックは部屋は隣同士だけど部が違うからおれが寝過ごしてることに気づかないし。だいたいあいつは始業に間に合うぎりぎりまで惰眠を貪るやつだ。起こしてくれって頼んでおいてもまったく信用できない。

 オースティ。ベルテも。わざわざ起こしにきてくれたのはありがたいけどさ。いいよ一日くらい。出席日数はちゃんと調整してる。考査でもないんだからサボったところで差し障らないって。
 だから頼むから。もう少しだけでいいから、寝かせて。

 頭の中でわんわん鳴り響く音波がまたひとつ段階を上げた。波の隙間を縫うように途切れ途切れに届く声も、また音量を上げる。

 ああもう。わかったよ。
 起きればいいんだろ、起きれば!

 そうしておれは学友に「うるさい」と文句を言う――それだけを目的に猛烈な睡魔に抗い、打ち勝った。



「おいラト! 生きてるよな?! 死にそうだったら返事しろってばおい! あ、起きた!」

 薄く開いたおれの目が、どこにでもいそうな凡人顔の、歓喜にまなじりを下げた若い男の顔を捉える。数秒前まで割と容赦ない強さで頬をべしべし叩いてくれてた気がするやつのドアップを注視しながら、おれの頭に浮かんだのは疑問符だった。

(誰だっけ)

 オースティでもベルテでも、当然アイザックでもないそいつの正体に内心本気で首を傾げながら、とりあえず「死にそうなやつはだいたい返事できないと思う」と出した声は、自分でも驚くくらいに弱々しくかすれていた。腹に力が入らない。胃をひっくり返されて何度も激しく揺さぶられたみたいなひどい違和感に、開けたばかりの視界がぐにゃりと歪む。

「気持ちわる……っ」

 皆まで言えず、反射的に上体を折り曲げて、あとは胃の中身を体外に出すことを選んだ身体のなすがままに任せる。なれなれしく名前を呼んできたまったく思い出せない誰かは、少しでもおれを楽にしてくれようとしたのか背中をさすってくれていた。
 出すものが胃液しかなくなって、それすら出し切ってしまっても、横隔膜の勝手な収縮はしばらく続いた。ようやく落ち着いても口の中に残る後味がひどい。それも、生理的な咳を繰り返すうちに慣れてしまった。

「うっわ……」

 なにも考えずに嘔吐したせいで、おれの服――特にズボンと靴が散々たる有様だ。見るに耐えなさすぎて笑えてくる。つんと立ちのぼってきた酸っぱい刺激臭に再びもよおしそうになる。みるみる口の中に充満していく唾を地面に吐き出して、それ以上の被害拡大を押しとどめた。

「落ち着いたか?」

 ぽん、と軽く背中を叩いて気遣わしげにおれをのぞき込んできた、顔。
 ああ。なんでこいつのことが誰なのかわからなかったんだろう。イムザじゃないか。今日、九年ぶりに会ったばかりの昔の仲間。おれが魔術師になるため励んでたのと場所が違えど同じ時間、薬師のばあさんの元で修行を積んだ見習い薬師。おれよりずっと年上なのになんだか頼りなくて、ジェフリーにすらほっとけないって心配される貧民街のガキどもの元リーダー。
 小さく痙攣する目元に気がつき「なんで泣きそうなの」と言おうとして、思いとどまる。そんな顔をさせてるのはおれだ。この有様でよくそんな口がきけるよなって、おれがイムザの側だったら絶対言うに決まってるから。
 
 そもそもどうして胃の中身をひっくり返す羽目に陥ったんだったか。経緯が映像になって脳裏を巡る。

 ほとんど防御しかできない、無様な戦いだった。
 狙ったみたいに靴先がみぞおちを抉る嫌な感触を思い出すだけで、腹の芯の部分が握り潰されるみたいにずくりと冷たく疼く。
 枯渇するまで連発した魔術式の痕跡はまだおれに残ったままで。満足に体を動かすことすらできいまま、おれの命を刈り取るはずだった死神の一刃を受けた、黒い剣が――

「……ジョエル」

 おれを後ろに引き倒した黒い剣の持ち主。聞き覚えのある、いつだって落ち着いた感情の読みにくい声。
 あれは確かにジョエルだった。

 エルシダまでの道のりの中、馬上でも徒歩でも涼しい顔を崩さなかった侯爵子息サマの片腕の一人。
 初めてエルディアード家で会ったとき、文官にしか見えないくせに帯剣してることに驚いた。さすが武家んとこの文官、って。けど、ある程度は形式上のものだと思ってた。補佐官とはいえ武家の名門侯爵家の側近が弱かったら格好がつかない、的な。
 おれの推測はどうやら間違いで、兄貴の剣戟を魔術のサポートなしに止められる実力は持っていたらしい。それでも、おれが言えたもんでもないけど、あの細身の体格で兄貴を下せるとはどうしても思えない。
 なんでああもタイミングよくジョエルが現れたのかはこの際置いておく。それより加勢しに行かないと。ジョエル一人に任せたまま、こんなとこで伸びてるわけには――

「ちょ、ラト、おまえなに動こうとしてんの! 無理だから! どう見てもおまえ重傷!」

 立ち上がろうと腕と腹に力を入れたおれの背中を石壁に押しつけてから、イムザはどっからか取り出した布でおれの左腕の付け根を縛り上げる。さすがそっちの道の専門家、すげぇ手早い……って、痛い痛いいだだだだっ! 痛い! そのくらいきつくやんないと止血の意味ないの知ってるけど、傷口よりそっちが痛い!

「おれの代わりに、兄貴とやり合ってるやつが……」
「そっちの心配はないから。自分の状況よーく見てまだそんなこと口走るんだったらぶん殴るぞこの馬鹿野郎」

 真顔のイムザは据わった目でおれをひと睨みすると、透明の液体の入った小瓶の栓を抜いて一気に傷口にぶちまけた。途端立ち上ってきた、つん、と鼻を刺激するどころじゃない、一気に脳をふらつかせるほどのむわっとした酒精に思わず息を止める。
 傷口とおれの顔を何度も見比べて眉をきゅうっと寄せたイムザは、アルコールが乾いてから左腕に手際よく布を巻きつける間、一言も、なにも言葉を発さなかった。

「ひどい有様だね」

 おもむろに声がした。
 ひどく他人事な――おれのこの無様な状態にこの人がなにも関与してないってわかってても、もっと言い方というか気遣いの色があってもいいんじゃないかって、つい腹に一物抱えてしまうくらい距離のある言葉。
 
 おれが体重を預ける崩れ落ちそうに朽ちた石壁の後ろから、頭からマント状の外套をすっぽり被ったその人が姿をのぞかせた。

 気配を消してたからなのか、おれが単にぼけてただけなのか知らないけど、普段の存在感を考えるとこんなに「消えられる」ものなのかって感心が「なんでここに」って疑問より先に立つ。……ジョエルがいたんだ。この人がいたって驚くことじゃない。
 目深に被ったフードが影を落としてるせいで、おれが勝手にもっとも印象強いと思ってる目の色が判別できない。それでも普段の――あくまでおれの知り得る範囲内での普段とかけ離れた、温度を感じない声色は、その持ち主の瞳が鉱石としての紫水晶そのものみたいにひやりと冷たく輝いているんだろうって想像させるのに、十分だった。

「そんな、冷たい言い方しなくてもいいんじゃないですか」

 おれが詮索の言葉を口にする前にイムザが非難の目を向ける。珍入者に向ける敵意とは違う。
 もしかして。いや、もしかしなくても。

「……ちょっと。イムザ」

 この人知ってるのかと、視線だけで問う。目を泳がせながらも返ってきた肯首に、どういうことだよって疑問がまたひとつ浮かぶ。たまたま助けを求めた人間がジョエルとこの人だったって? そんなの都合がよすぎるだろ。どういうことだよ。

「ああ……君に向けたつもりではなかったのだけれど。……出していたかな」

 侯爵子息サマが背筋を凍らせる物騒な気を消して、口元に笑みを刻む。フードを軽く持ち上げ、露わになった双貌に想像してたような冷たさはない。それでも、これが「殺気」と呼ぶにふさわしいんだろうって空気の残り香みたいなものは、おれの感覚になのかもしれないけど漂ったままだった。

「無事……には見えないね。命に別状なさそうではあるけれど」

 イムザがぴくっと頬の筋肉を痙攣させて、およそ友好的じゃない目を投げつけた。隠す気ないだろってくらいに嫌悪感むき出しで。ん、なんで。今の言葉のなにが琴線触った?
 予想外に迫力のあるイムザの強面を微笑の一瞥でスルーして、侯爵子息サマはおれの傍に片膝をつく。うわぁ……落ち着かない。近い。その、無駄に整った顔と路地裏にふさわしくない存在感であんまり近づかないでほしい。そのマントじゃ全然そういうの覆い隠せてないから。ていうか、この人よく近づけるな。悪臭放ってるおれに……。

「ジョエルに助けてもらったおかげで」
「ああ。ジョエルの方が先に追いついたのだね。なんにせよ間に合ってよかった」
「……勘違いするなよラト。『追いついた』っていうのはおまえにじゃない。この人たちが探してたのは兄貴で、おまえはそのための餌のひとつにされてたんだよ」
「は? 餌?」
「今はそれよりも。応急処置は済んでいるように見えるけれど、治癒魔術を使ったという風ではないね」

 イムザからものすごく聞き捨てならない単語を聞いた気がする、ていうか実際聞いたわけだけど。追求を許さないってばかりにきっぱり話題を断ち切った侯爵子息サマは、確かにおれにとって一番優先順位の高い部分を突いてきた。

「……魔力が空っけつでどうしようもないんスよ」
「そうか。あいにく私は治癒に限らず魔力展開が不得手でね。魔力を持ち腐らせているだけで、傷を塞ぐことひとつできない。できるのは、これだけ」

 無事な方の腕――右の手首をやわりとつかまれる。日の光を知らなさそうな白い手の甲に相反した、掌と指に硬いたこのある武人の手だった。
 一応おれの手も剣を扱う以上、硬いたこがあるにはある。でもあくまでおれの本分は魔術士で、四年の研鑽を魔術に傾けてきた。魔術部の単位取得に触らない程度で武道部の授業に混ざってたくらいじゃ、剣を握る感覚と、覚えた体捌きを忘れないため程度にしかならなかったと思う。
 侯爵子息サマの手は魔術の片手間をうかがわせるおれと全然違う。武道部の手合わせで握手したやつらと同じ――いやそれ以上の、これでもかってくらい豆をつくっては潰してを繰り返さないと完成しない、剣柄を握ることに慣れた手。
 その武骨な感触の手に軽く力がこめられると同時に、浮遊感に似た感覚がおれの手首を抜けた。一対の紫水晶が、すい、と薄く細くなる。イムザは不得要領顔で片手を中途半端に浮かせたまま動かない。たぶんおれも同じような顔をしてる。ただ、おれにはなにが起こってるのかって事実だけははっきり見えてる。侯爵子息サマの触れる手首から、じんわり全身に染み渡るようにおれを満たしていくものの正体が、魔力だってこと。
 詠唱の言葉はこぼれない。術式を使ってる風でもない。おれに注がれてるのは、魔術の形式を成してない魔力そのもの。

「……っ、魔力譲渡なんて、協会でだって試行段階のはず」
「らしいね。ああ、原理などという小難しいものを訊かないでおくれよ。私自身よくわからない」

 ちょ、使える魔術はこれだけとか言いながら、その「これだけ」がとんでもない未知の領域って、どうなの。しかも自分でよくわかんないって。え、つまりおれはこの原理を解明して魔術師協会に発表すればいいの? ……無理だ。これ、術式がない。感知できない。厳密には魔術っていえない力技だ。無理矢理同調されてねじ込まれてるカンジ。そう言うとわりと簡単に聞こえるけど、十人十色で波長の違う自分以外と魔力を同調させるって、普通できない。協調性があるなんて特性で説明できるもんじゃない。その特性が関係してたとしても、この人ほど協調性って言葉からほど遠い人、そんないないだろと思うからたぶん関係は薄いんだろう。

 驚けばいいんだか呆れればいいんだかわからない心持ちで、ただ、空っぽだった器が満たされていく充足感を享受する。あちこちを身体的に傷まされたことに起因する重だるさは残ってるけど、魔力の枯渇からきてた頭重感はすっかり消えた。

「では、私は行くよ。このまま彼をジョエルとハラルドに任せてしまっては、せっかくエルシダにまで出向いた意味がない」

 おれから手を離した侯爵子息サマが、マントの合わせからひどく見覚えのあるものを取り出した。おれのすぐ手元の地面に下ろされてかちゃりと軽い金属音を立てたそれは、朝方ベッドの上に置き去りにしたことを後悔した、おれの剣。軽さと扱い易さを重視した、分類としては短剣に入る小振りの武器。

「置いていったのは、感心しないよ」

 これを渡すってことは、まだ終わってないってことだよな。ジョエルだけじゃなくてハラルドも行ってる。そこにあんたも行くって。

「……エルシダに来たのは、このため? おれを手駒にしたのもこれが目的だったのか?」

 エルシダにいた頃のおれのことを調べてあったんだ、俺と兄貴の接点を知ってたっておかしくない。この人と兄貴の間に何があるんだかは知らない。わかるのは、その接点を利用されたってこと。さっきイムザが言ったみたいに『餌』にされたってことだ。
 そのこと自体は構わない。多少は腹はたつけど、それは言ってくれりゃ文句言わないで動いたのにって部分にだ。囮の役目が策として重要なことくらいわかってるから、それはいい。
 でももし、おれを手中に入れた目的の全てがここだけだったら。

「勿論それもある。でもね、ラト。私がたったそれだけを目的に、君に投資をしたと思われるのは心外だ。思い違いはしないでほしい。私はちゃんとこの先も、君を骨の髄まで利用し尽くしたいと考えているからね」

 口調を改め忘れたおれの問いに、侯爵子息サマはそう言って「だから安心しておいて」って最後に一言にこりとつけ加えた。ひとまず安心はする。するけど、言い方……! 言い方が不穏!

「それとイムザ君。ここから離れるのは構わない。そうした方がきみのためだと言っておくよ。ただし、あとで聴取には協力してもらうからそのつもりで」
「えーえー。それはもちろん。こっちは最初からそのつもりでいたんで。でもですね、俺、もう一度こいつを置き去りにして逃げる恩知らずにはなりたくないんで」

 相変わらず憮然としておれたちのやり取りを見守ってたイムザは名前を呼ばれて一瞬目を見開いてから、丁寧口調ではあるけど不遜を滲ませる調子で言い返す。侯爵子息サマは気分を害する風でもなく、むしろ満足そうに頷いて、元通りフードを目深に落としながら路地の角を曲がって行ってしまった。
 ジョエルもいる。ハラルドもいるらしい。侯爵子息サマの信頼できる側近が二人。心配するだけ無駄だ。



「なあラト。左手。動かしてみ」

 侯爵子息サマのひるがえすマントの裾が見えなくなって数呼吸した頃、与えられた魔力が完全に馴染んで自分のものになってることを確かめてたおれは、唐突に訊ねられた。

「……動くけど」

 左の上腕に軽く力を入れてみせたおれに、さっきから不機嫌を続行させてるイムザの目がつり上がる。

「ふざけてんのか。腕じゃなくて手。指でもなんでもいい。怪我から先、動かしてみろって」
「ああ……うん。それは……」

 おれがすいっと目を逸らしたのを見て、イムザは「やっぱり」と眉を曇らせた。

 ……気づく場所はいくつもあったもんな。
 おれ自身、目を覚まして間もなく、痛みを感じないところでもうこれやばいなって思ってた。そこに追い打ちをかけたのは、傷に消毒アルコールがかかったときに普通やってくるはずの感覚が、欠片も脳に響かなかったことだ。揮発によってもたらされる軽い酩酊感は確かにその液体がアルコールだってことを教えてくれるのに、左腕は知覚しない。正常に機能してくれない。その事実を想起して、ぞっとしたものが背中を再び這い上がる。

「治癒、得意なんだよな? 今ならまだ、間に合うよな?」

 頼むからそうであってほしいって懇願に、おれは自信を持って頷くことができなかった。当たり前だろって見栄張って、罪悪感に顔を歪めるイムザに気休めを言ってやったっていいじゃないか。そんな簡単なこともできないのは自分に余裕がないからだってわかってる。このまま左腕の感覚が戻ってこなかったら――そう考えると、とてもじゃないけど落ち着いてなんかいられない。

 侯爵子息サマはおれのことを憐れんでおれを手駒にしたわけじゃない。誉れ高いエルディアード侯爵家の預かりになったとはいえ、指定機関就労義務から外れたおれには奨学金の返済義務が発生した。それを全額肩代わりをするっていうことが、契約書にしっかり明記されてた。決して安くない額――さっきネガティブにこの一件限りの使い捨てにするんじゃ割に合わない程度の金が動いた。まぁ侯爵子息サマにとっちゃはした金なのかもしれないけど。そうまでしてくれたのはおれに利益を見込んでくれたからだ。
 求められてるのは確実に、左腕の機能を失ったおれじゃない。
 もちろん時間をかければ五体満足と同じようにとまではいかなくても、望まれた働きができるようになるかもしれない。
 それまで待ってくれる保証がどこにある? 縁も由縁もないおれにそこまでしようと思えるか? もしそうしてくれたとしても、おれはその重い好意を甘んじて受けられるのか? どれもこれも、良い方に傾く可能性は低い。

 様子で察したんだろう、肩をつかまれる手に力が入った。滲んでくるものを堪えるイムザの眦と鼻筋にしわが寄ってる。
 ――ああ、うん。おまえがいてくれてよかった。ホントによかった。おまえがおれの恐慌をだいぶ持っていってくれたおかげで、ここまでの平静を得られた。一人だったら術式を頭に描くこともできなかったかもしれない。

「とりあえずやってはみる。それでダメだったら……そのとき、考えるさ」

 旧友の存在に感謝しながら、からからに乾いてかすれた声で、今できる範囲で最上級の前向きな言葉を音にした。