「半月くらい前だったかな。兄貴がエルシダに現れたのは」

 それほど遠い記憶でもないその日をなぞり、視点を宙にさまよわせたイムザが重い口を開いた。

「驚いた驚いた。おまえの比じゃなかったね。……十年経って外見変わってたけどさ、遠目で見てもすぐわかった。相変わらずギラッギラしてたよ」

 息をついて目を伏せたイムザの瞼には、『現在』の兄貴の姿が映っているんだろう。さっきまでおれとの再会に高揚し、顔を上気させていたイムザの口をこうまで重くさせる兄貴の姿が。



 十数年前のエルシダの貧民街で、それまでいくつも乱立していた孤児グループをカリスマ的リーダーシップで一つにまとめあげた少年がいた。その詳しい経緯を知ることはなかったけど、おれたちは彼を兄貴と呼んで、慕っていた。
 その兄貴は、十年前、おれが六才だろう頃にエルシダから姿を消してそれきり戻ってこなかった。

 時間の共有は少なかった。いつも年長の仲間に囲まれていた兄貴に近づくことなんてそうそうできなかったから、姿かたちすらおぼろげで、うまく思い出せない。遠くから眺めているばかりで覚えているのは、遠ざかっていく広い背中。そんな断片的なものだけだ。
 ジェフリーに話を聞いてから久しぶりに兄貴について思いだそうとしても、肝心の顔はのっぺらぼうで、それは今も変わらない。感情としても、世話になったんだよなとか、今さら戻ってきてなにやってんのあの人、くらいの他人事なものしか沸き上がらない。

 でもイムザは、おれよりはずっと兄貴に近い場所にいた。
 六才と十一才の五才差は、今のおれたち十六才と二十一才の五才差とはまったく違う、絶対的な差があった。
 もちろん今だってイムザの方が背も高いし人生経験が五年分長いのは変わらない。年のいったじいさんばあさんなら二人まとめて子どもと称するかもしれないけど、大多数の人間が線引きすれば、おれは子どもでイムザは大人だ。それでもこうやって対等に話をすることができるし、さっき簡単に関節技を決められたように(イムザが弱いせいもあるんだろうが)荒事でなら負けない自信がある。
 そういうものが、昔はなかった。五才も差があればなにをやっても年長にはかなわなくて、守られこそすれ同等の相手にはならなかった。数年遅く生まれただけで、おれはたいした働きもできずにお荷物の側にいた。

 今にして思えば、おれが自分より年少のやつらの面倒を見るくらいしか能のないお荷物であることを悔しく思うのと同じくらい、それ以上に、十才を越えた程度の子どもでしかなかったイムザたちはグループの中堅層としてある程度の責任を背負ってたんだろうな。年少から頼られる自分と、兄貴たちから「まだガキだから」と同じ土台に上れない自分のギャップに歯噛みしていたんじゃないだろうか。想像でしかないけど、おれももう、その年代を通り過ぎた。だから間違ってはいないと思う。

 兄貴たちは自分たちがどうやって稼ぎを持って帰ってきたか、おおっぴらに口にはしなかった。
 でもおれは、薄々気づいてた。他の年少のやつらも、ほとんど知っていたと思う。そしてきっと兄貴たちもおれらが知ってることをわかってた。わかっていて口にしないのが暗黙のルール。上の意に添わないことをしないのは、養ってもらってる立場である下の礼儀だから。仲間意識で繋がっているだけの、本来なら面倒を見る責任なんてない他人なんだから。
 イムザは中堅層として兄貴たちの下っ端として動いていたから、直接的な行動は取っていなかったらしいがおれたちよりは深いところに通じていたはずだ。おれたちには見せなかった兄貴の顔やしていたことを、嫌でも知っていたに違いなかった。
 そういう前提条件で、おれとイムザとでは兄貴に抱く感情が異なっていた。
 もちろん、現在の立場の違いもそれを広げているけど。

「話聞きかじったってことは、少なくとも兄貴がここでなにやってるかくらいは知ってるだろ?」
「昔と同じことしてるってくらいは」
「そ。ただし昔より派手でタチが悪くて、その上、守るものがない。確かに兄貴たちは自分の意志でいなくなったわけじゃない。俺たちから兄貴を奪った奴らを恨んださ。でも、十年経った。十年だぜ? 今さら戻って来られたところで俺たちはもうあの人に頼らなくても生きていける。はっきり言って関わりたくない。あの人のせいでここまで作った街の人間への信頼が壊れたら、また昔に逆戻りだ。そんなのはごめんだ」

 イムザの目に灯る意志の灯は、おぼろげに残る兄貴の鮮烈な炎に比べれば弱い。でもイムザの灯は簡単には消えないことをおれは知ってる。おれがいなくなった後も、何度も消されかけただろう灯は、年月を経ても色を変えることなく灯り続けていた。それが、イムザの強さ。

「昔みたく、抱え込んだ俺らを食わせるって名分があれば許されるってわけでもないけど。俺は、今の兄貴はーーただの犯罪者以外のなにものでもないと、思う」

 ぐっと詰めた息をゆっくりと細く吐き出してから継がれた言葉は、聞き取るのがやっとなかすれ声だった。
 イムザは、おれよりも兄貴といた時間が長くて、それゆえに信じていた時間も長かった。だから余計に許せないんだろう。

「なんでだろうな。あんなに世話になっておいてさ、俺、薄情者だよな。兄貴は俺たちのヒーローだったのにな」

 イムザが泣きそうな声と顔で自嘲気味に笑う。
 うなだれたイムザのつむじを見つめながら、淡々と、選んだ言葉を口にした。

「兄貴への義理より、今のイムザが守りたいものの方が、イムザにとっては大事だからじゃないの」
「……そうかなー」
「おれはそう思うからそう言った」
「それでいいと思うかぁ?」
「それを決めるのはおれじゃない」
「キビシーのなー。傷心なのよ。もっと優しく扱ってくれよー」

 顔を上げたイムザが口角を下げて情けなく笑う。
 どこか吹っ切れた雰囲気に、少し気を弱くしただけだったんだろうと推察した。大丈夫だ。イムザは強い。突き落とされても、イムザは歯を食いしばって這い上がる。救いの手を自分で作り出す力を持った人間だから。

「会ったの?」

 そろそろ進展させようと、おれは現在に近い部分に話の時間軸を移した。

「うちのやつが金握らされて、脅されてな。そいつ最近こっち側に入ったやつだったから、馬鹿正直に俺んとこ連れてきやがってさ。だから俺はもう違うって言ってんのに」
「なに言われた」
「あー……まぁ、今までご苦労さん的な? あと若干昔話とか……まあ、うん」

 こいつ、隠し事下手なの変わってねー……。わかりやすすぎる。なんかありましたよって言ってるようなもんだ。元リーダーがこれじゃ、これの下にいた今のリーダーや上のやつらはさぞしっかりしてるんだろうと想像がつく。ジェフリーじゃないが、支え甲斐のあるアタマってことでやってきたのか。リーダーの座を退いた後惜しまれるってことは、兄貴とは別の方向でのカリスマ性を持った精神的支柱だったんだろう。
 この街を去ることなく、そんなイムザを支える一人として生きていたら、果たして自分はどうなっていたんだろう。そんなもしもが一瞬脳裏をかすめた。深く考えるのはやめた。その「もしも」の自分は、今こうして違う場所で違う生き方を望んだ自分とは別の価値観を持った自分だ。存在しない比べるべきではない自分。そんなことを考えるより先に、はっきりしておくべきこと――いや、吐き出させるべきことがある。

「なんか危ないことに手ぇ貸せって無茶ぶりされたとか」

 これ以上は一言も余計なことを漏らすまいと引き結ばれた口元がぴくりと痙攣する。

「おとなしく言うこときかないと、おまえのとこのちっこいのがどうなるかわかんないとか脅迫されたとか」

 目が泳ぎ、おれの視線から逃れようとしたのか背けた顔が片手に覆われる。だから……わかりやすいにもほどがあるって……。

「ていうかもう既に下のやつらになんかあったとか」

 顔を覆う手の下から、情けない嘆き笑いがあがった。手の隙間から見えるイムザの顔は嫌そうに歪められている。

「相変わらずの容赦ねぇ畳みかけ、どーも……」

 泣いているように聞こえなくもない声色で呻くイムザに、さあ吐けと追撃しようとしたところで、パタンと玄関のドアが開いた。

 大事なところに邪魔が――忌々しくドアの方を向こうとする軌跡の途中、イムザが肩を跳ね上げ硬直しているのが視界をかすめた。それで大方の予想はついた。

 憮然とした顔を惜しげもなくこちらに向け、籠を抱えた老婆が立っていた。