「いやー、いいねぇ! 久しぶりの休日! 師匠の暴虐に堪え忍んでる日常があるからこその、この解放感! 労働冥利に尽きるってもんだ」
「言ってることオヤジ臭い」

 エルシダ特有の黄色く霞がかってすっきりしない空を仰いで伸びをするイムザは、そんな調子じゃ使いものにならないから今日はもう帰ってくるなと追い出されたのだ。それはつまり『外で自由に話してこい』と同義。ご丁寧に内鍵をかける音を背に、イムザは「うちの師匠、顔と性格で損してると思わねぇ?」と口角をつり上げていた。

 昼時前の賑わいを見せ始めた下町の中心通りを歩きながら、当たり障りのない話をした。
 あのばあさんの弟子になってからの苦労話に混じった、少しの自慢話。貧民町の大人は相変わらず昼間から酒ばっかり飲んでて、今じゃイムザたちの方がよっぽどましな生活をしてること。おれも覚えてる仲間の一人が去年警備隊に入ってそれなりにうまくやってるらしいこと。そんな話に相づちを交え、おれは聞き役に徹していた。
 もしイムザからおまえはどうよって振られたら、もうおれにとって懐かしい記憶になりつつあるラムロットでの生活の端々を思い出しながら話しただろう。王都での学生生活を話すつもりはなかった。アイザックとこなしたバイトの話くらいはしたかもしれない。でもそれ以外の、たった二人とはいえ貴族に分類される生まれの友達がいるってことを、イムザには知られたくなかった。言ってしまったら、ただでさえ年月が作り出した壁を、さらに分厚く高くしてしまう気がして。もちろんこれからーー事実上は今も既に雇用主になった人物が侯爵子息サマなんて人間だってことも。
 幸か不幸か……って、不幸ってこともないだろうけど、ともかく再会から一向にテンションが下がる様子のないイムザは、自分のことを喋るのに夢中で、落ち着くまでおれの話を求めてくることもなさそうだった。

 腹ごしらえのためイムザと連れ立って入った店はくたびれた、しかし客回りはよさそうな定食屋だった。店の敷地は狭い。その分、飲食スペースを屋外に確保してるから待ち時間はそうでもないんだとイムザは話す。ただ、これ、風の強い日は絶対に料理に砂が混ざる。雨とか雪の日とかはどうすんだろとも思うが、店の屋根に備え付けられた天幕を見つけた。雨程度の天候には対応できるみたいだ。それでも平時の砂の混入だけはどうにもならないだろうが。
 イムザは普段、出来合いの総菜を二人分買いに出て、戻ってばあさんと顔をつき合わせて済ませるなんて軽く拷問みたいな昼飯時間を過ごしてるんだそうだ。で、ばあさんが外の仕事に出かけたまま戻らないときは決まってこの店に来るんだとか。味も値段もまあまあなのに加えて、店員に一人、好みの子がいるんだとか。どんな子なのかは興味があったけど、生憎時間か日が悪かったのか今日はいないらしい。当然、おれよりもイムザの方が肩を落としてた。

「さっきの師匠の話の続きだけどさ。もしかしたら『覇緑の賢者』なんじゃね?」
「……ハロクの? 賢者?」

 運良く空いてた屋外のテーブル一つを陣取って、注文後に真っ先に運ばれてきた水で喉を潤したイムザの口から出てきた単語を、ちびりと水を飲み下してから疑問符付きで反芻する。

 実はこのとき、おれはイムザの話をあんまり聞いちゃいなかった。とある衝撃に震撼してたからだ。
 飲食店で扱われる水が、有料。しかもけっこういい値段。
 品書きの一番上に書かれた「水」の横に数字を見つけた瞬間のおれは、きっとなんとなく開いた魔術書に思いがけず、すとんと胸に落ちる術式構成を見つけたときと同じ顔をしてたんじゃないかと思う。
 ラムロットにいた頃は井戸があって、生活用水全部をそれでまかなえてたし、学院に入ったあとは食堂でセルフサービスで飲み放題。水に金なんてかからなかった。外部の仕事に出るときも食堂の水を水袋に移していくのなんて誰でもやってることだった。エルシダで孤児生活してた頃なんて言わずもがな。運が良ければ下町の井戸を使えて、普段の飲料水なんて貯めた雨水だったはずだ。
 思えば飲食店に入ることなんてなかった自分の世間知らずさ加減というか……それ以前に自分の境遇の極端さに、内心で乾いた笑いを滲ませていた最中だったわけだ。
 ちなみにこの店、たぶん飲食スペースのほとんどが屋外なのが理由で前払い制だ。そういう対策してないと絶好の食い逃げスポットだもんな。

「……悪い。なんの話?」
「だからあの姉ちゃんだよ。おまえの、師匠? とにかくおまえ連れてった薬師の姉ちゃん」
「あぁ、うん。で、それがなんだって? 賢者? なにそれ」
 
 共通認識で当たり前みたく言う……えぇと? なんだっけ、なんの賢者だっけ。全然話聞いてなかったから単語抜けてった。ともかく、あの人とそのなんとかっていうのとの繋がり以前に。賢者って固有名詞の意味がわからない。

「あれ、知らない? 嘘だろ。すっげぇ有名な薬師じゃん」
「そっちの業界に限った話じゃ?」
「あぁそっか。おまえ薬師になったわけじゃないんだっけ。いや、てっきり俺、おまえも薬師修行中なのかとばっか思ってたんだよ。そっか。そういえばさっき魔術教わったとかそんなん言ってたもんな。そっか」

 一人納得しながらグラスの水を飲み干したイムザは、ようやく運ばれてきた日替わり定食を見苦しくない作法で攻略にかかった。ばあさんに毎日うるさく言われるうちに身についたんだとか。なんだ、おれと同じじゃんって笑った。食事のたびに容赦なく指摘されてれば嫌でも身につくってもんだよな。第一、なんの縁もないのに面倒見てもらってるんだし。
 言われてるときは辟易して、時々皿ごとぶちまけてやりたい衝動に駆られたこともあるんだけどな……。でも、それまでとは雲泥、それ以上に恵まれた食生活ばかりじゃなくて生活全部のレベルを引き上げてもらってる身としては、それだけはやっちゃいけないと必死で耐えた記憶が思い起こされる。単純に、あの人には逆らっちゃいけないって動物的本能が訴えたのかもしれないけど。

「伝説級の薬師だよ。覇緑の賢者。三百年以上前の」
「ちょっと待て。三百年て」
「まあとにかく聞けって。覇緑の賢者ってのはな? イヴァンを中心にした地域のいろんな資料に残ってる、少なくとも俺が知ってる歴史に名を残した薬師の中じゃ一番有名な流れの凄腕薬師なんだよ。やれどこどこの村の疫病を鎮めたとか、不治の病だった病気の治療法を確立したとか。年表と照らし合わせて実際そうだったんだろうなって信憑性の高い話もあるけど、眉唾物の記述も多いんだよな。今じゃとっくに絶滅した竜の肝を使って薬を作ってたとかさぁ。ま、そんだけ救世主として崇められてたって証だよな。でもな、問題はそのあと。明らかにもう生きてないだろって年代になってからも覇緑の賢者って名前がちょいちょい出てくんの」
「それ、普通に考えて代々受け継がれてる称号とかだろ。あとカタり。それか記載側の勘違い。思いこみ」
「うん、そうなんだよな。俺もそう思うよ。まさにそれが一般論。でもさ、なんかさっき、ふっと『あ、あの姉ちゃんがそうだったら全部、いやほとんどは本物でもおかしくなくね?』って思ってさあ」
「……そもそも、歳くってないって話からして荒唐無稽だとおれは思うんだけど」
「そこはほら。師匠も言ってたじゃん? 魔術でなんとかしてんじゃないの?」

 軽く言ってくれる。でも、一般人の魔術に対する理解なんてだいたいこんなもんだ。なんでもできる便利な力。そういう認識が当たり前に横行するくらい、魔術士として名乗れるくらいの力を持つ人間は希少な存在だ。

「確かに、肉体の時間を止めたり老化を緩やかにするっていうのは不可能じゃない。でもそんなこと実践する魔術師は、……魔術士でも、できたとしてもやるやつは馬鹿以外の何者でもない」
「ん? できるのに、やんねーの?」
「そ。やらない。やれる力を持ってるやつはだいたい、愚かで無駄なことだってわかってるから。で、たまに出てくるその愚かで無駄なことを実践しちゃったやつは、魔術師協会の制裁を受ける」

 老化停止、それに準じる肉体時間遅延は、魔術師協会の定める禁忌だ。
 どうしてそれが禁忌なのかなんて考えるのも馬鹿らしい。
 魔術士は治癒魔術で死に背く。
 でも、死そのものは否定しない。死を否定するのは対になる生を否定することにも繋がる、なんて哲学めいた教えを受けるんだけど、そんなの改めて教えられなくてもだいたいの魔術士は不老や不死に嫌悪を抱く。それはおれたち魔術士が、過去、権力者にそういうものを求められ追いつめられた歴史も学ぶからだ。

 それなのに使用を禁じてるのは、馬鹿なことを考えるやつが出てくることがある――そういうことだ。

「そういう系に限らなくても、身体強化とかの付与系魔術って常に術式を纏ってる状態なんだよ。魔術師協会は不老不死とかの魔術に常に指定感知張ってるから、協会の支部もないよっぽどの僻地、世界の果てにでも引きこもってない限り普通引っかかる。そんなとこに引きこもってるだけのやつは別に問題ないから、基本放置でいいんだってさ」
「おー……おまえがなに言ってんのかだんだんわかんなくなってきた。オッケー。つまりタブーなわけな。……それ、果てに引きこもってこっそり危ない研究とかしてたらどうすんだ?」
「研究したらどうしたって実践したくなるじゃん? 破壊活動とかしてたらさすがに調査入るだろ。あと、人に被害出るような成果が見たけりゃ人里に下りるんじゃね?」

 まあ世界を破滅させようなんて考えてたとしたら、人里に下りるまでもなくどうにかできるのかもしんないけど。そんなこと、まずできないだろうし。そんなん考えそうな魔術師ないし魔術士なんて大抵はその前にやらかしてるに決まってるからマークされて国外に出るのも難しいんじゃないだろうか。

「とにかく。魔力感知の網で言えば、辺境は辺境でもラムロットなんて協会本部の総本山の膝元みたいなもん。協会から逃げるのにそんなとこに引きこもってもまったく意味ない」

 それにあの人、ここの魔術師協会支部の前を堂々と素通りしてったし。禁忌の術者っていうのは、まずない。

「他の可能性として、同じ種族でも魔力の高いやつはそうじゃないのより長生きな傾向があるってのがあるけど。でもそれだけの要因じゃ人間が三百年なんて時間は生きられないし。せいぜい一生若作りだって言われ続けて百歳突破するくらい? ……魔族に転化したとしたら、話は別だけど」
「てんか?」
「魔族に『成る』ってこと」
「なる、って……それマジで言ってる……?」
「マジ」

 マジかよ、恐ろしげにもう一度繰り返して、イムザはおれの話を聞きながら定食をかきこんでいた手を完全に止めた。

「うっそ。魔族って、隣の世界の別の生物なんじゃねえの」
「そう言われてる。でも、隣っていう近さだからお互い干渉できるんだってさ。人間に限らず、なんでこっち側は魔族になれてあっち側は人間になれないのかはわかってない。もしかしたら把握できないだけでなれんのかもしれないけど。転化の仕組みは今関係ないから置いといて。魔族が長生きなのは魔力が馬鹿みたいに高いからってさっきの定義がそのまま適用される。存在の要が魔力だから必然的にそうなる。だから、元は魔族じゃなくても転化すると魔力の量がはね上がるから長生きになるわけ」
「じゃ、あの姉ちゃん魔族?」
「……その可能性が一番高いかも」
「やだなにその可能性。やだ。俺は独自の方法で魔術師協会の目をかいくぐってる方に希望を持つ」

 ふるふると頭を振って再びフォークを握ったイムザの咀嚼のスピードは、さっきまでより明らかに落ちていた。

 あの人が魔族である可能性。
 それは、おれだってやだ。

 実際に魔族なんて見たことある人間は魔術士の数以上に少ないと思う。おれも見たことなんてない。
 それでも確かに存在はしていて、「いい子にしないと魔族に食べられるぞ」なんて子どもへの脅しの常套句に一般的に使われてる。歴史書の中にもたびたび登場して、疫病や災いをまき散らす害悪って認知されてる。
 そんな、人間を害する危険な存在として一般認知されてる化け物。それが魔族だ。

 そりゃちょっとばかり変人……だったけど、あの人はおれの未来を開いてくれた恩人だ。それがいきなりここで魔族かもしれないとか、おれ自身の持つ知識から導き出されたもっとも有力な仮説だって、そんなの受け入れたくないし、一緒に過ごした五年間の記憶はそんな存在じゃないって教えてくる。
 それでも、だったらばあさんの証言はどういうことだと疑念だけが広がっていく。
 就職先問題が晴れて戻ってきたはずの食欲は、また急速に減退していた。半分ほど食べ進めた素朴で優しい味の川魚のムニエル定食、悪いけどこれ以上は入りそうにない。

「おまえ、昔から記憶力とか頭の回転良かったもんな。くそー俺も頑張ったんだけどなぁ」
「分野が違うんだから知ってること違って当たり前だろ。おれも薬学の専門話なんてされたらわかんないから」
「そう言ってもらえると嬉しいわー」

 こっちもあんまり食の進んでないイムザが軽く笑い、そして唐突にフォークを置き、真面目な面もちで周囲に目を向けた。
 荷運びの仕事を抜けたそのままの格好で無心に飯をかきこんでる男たちや、商団の連中だろうか、畳んだ砂避けのマントを椅子の背に引っかけた旅装束の集団。テーブルに同じ定食の皿を乗せた人たちをぐるりと見渡して、視線をイムザに戻す。昔の友人は悪戯小僧の顔をしていた。

「俺らのさっきまでの会話、端から聞いてたとしてさ。どっちの出身もあの掃き溜めだなんてどのくらいのやつが看破できんだろな?」
「さあ。少ないと思うけど。身分があっても学ないのなんていくらでもいるし、学があっても脳筋だっているし。生まれは結局、可能性の幅が広いか狭いかの違いなんだってさ。生まれも育ちも貧民街のガキが英雄になって国を興して王になることもあるかもしれないし、反対に、反乱を起こされた王が転落して乞食になって野垂れ死ぬかもしれない。そういうことが起こり得るのは、身分なんてもの、人間が勝手に決めた後付けルールでしかないからだって。人間ていう存在ができたときに与えられる定義にはどう足掻いたって届かない。世界ができたときに決まった世界のルールには。生き物は必ず死ぬとか。時間には過去現在未来があってその順番を動かせないとか。概念っていうのかな。そういうルールを『理』っていうんだって。世界単位のルールなんだから、たぶん、魔族のいる世界とこっちでは『理』も違う。それなのに扉が繋がって、転化なんて方法でこっちがあっちに帰依できるのは、『理』に共通のものがあるからじゃないかと思う」

 おれの、自分でも思いがけなく長くなった世界定理の説明に、不敵な表情を見せたはずの元・貧民街孤児グループのリーダー様はすっかりうんざり顔だ。おかしいな、こんな真面目に論議するみたいなつもりはなかったのに。久しぶりに会って話して、おれもテンション上がってんのかな。

「はあ。全っ然わかんね。ラト、さっきからおまえ壮大な話するのなー。そういうの哲学っての?」
「前半はともかく、後半は定理だと思う。全部あの人の受け売りだけどな」
「そんなんホント、田舎の薬師がする話じゃねーって……」
「話戻すけど。とにかく今おれが言いたかったのは、そういう『理』ってのは絶対だけど、その分当たり前すぎて見えないから、余計に人間の作ったルールばっか見えて、その枠に自分を当てはめて卑屈になったり傲慢になったりするんだろうなってこと」
「なるほど。わかるけどわかんねえ。ははっ。なんでこんな話になったのかがもっとわかんねー」
「それはおれもわかんない」

 なんでだ、と二人して首を捻った。これ以上食が進まないと早々に諦めて、「あいつらに申し訳ねー……」と仲間の食事事情にうなだれるイムザと連れだって、皿の返却に店に入った。
 返却カウンターの向こうで皿を受け取る女店員を見てイムザが固まった。さっき店に入った時には見かけなかった店員、てことは、これがイムザの好みの女かと不躾に眺めてしまった。うん……普通。イムザと釣り合う感じに普通。そんな失礼な感想を抱いてさらに見てたら、襟首つかまれて入り口近くまで引きずられ、ガン見しすぎだっつの、だアホ! って小声で怒られた。心なし涙目で。カウンターの方を見ると、例の店員が警戒心も露わな様子で引き気味におれたちを見てた。うん。……悪かった、イムザ。

「卑屈と傲慢、な。それはわかるわ」

 街歩きを再開する前に、イムザが当分入りづらくなった店の近くの建物の影に並んで座り込んで休憩する。
 ぱっと見で職にあぶれた兄弟風に見えそうだけど、昼飯時で似たようにのんびり時間を過ごして喋ってる連中はちらほらいた。そもそも、おれもイムザも立派に手に職持ってるし!

「上を見ると卑屈になるし、下を見れば傲慢になるし。身分制度なんかない俺のせっまい世界ですら無意識に格差つくってんだから、そりゃ目に見える形で認められたヒエラルキー上位のやつらは俺らを見下して当たり前だよな。で? その雲の上のお偉い様の中でもまた格差があるんだろ? ホント、ちっさいなー人間」
「それも『理』として定義付けられてる項目なんだろ、たぶん。生き物全部に……そっか。生き物全部」
「おい……」
「人間だけじゃないよな。アリだって女王を中心にコミュニティ形成するもんな。むしろアリのが身分制度きついのか。兵隊アリは兵隊アリとして生まれて、絶対それ以上にはなれないらしいし」
「…………」
「知性が高くなるにつれて下克上が可能になってるってことか? 一応、無意識に『理』に逆らおうとしてることになんのかな、それ」
「……なあ」
「世界に逆らってどうしようってんだろ」
「っ、だーっっ! もうわっけわかんねえよ! 普段チビどもと低レベルな話ばっかしてる俺にはそろそろ頭が痛い! ちょっとインテリぶって悪かった! 俺から蒸し返しといてなんだけどこの話やめよう、マジで! な! 終わり! 次っ!」
「もしかして転化って反逆の極地……?」
「だから頼むからこっち戻ってこいーっ!」