おれの知る限りの武器の中で、投擲ナイフはコストパフォーマンスの悪さにかけて他の追随を許さない。
 じゃあなんでそんなもん使ってるんだっていうと、まあ単純に魔術だけに頼るには能力的に心許ないからだ。

『力としての魔術士は頭使ってなんぼだからねぇ。そりゃ三下だったら適当に魔術撃ってりゃなんとかなるよ? でも人間が全員そんな簡単な低俗ばっかりじゃないのは当然だよね。だから頭使うの。魔術理論とか関係ない部分をね。それなりに対処能力ある相手と戦うには、魔術の才能云々より先に間合いと時間を上手に稼ぐこと。これ一番大事。じゃさっそく覚えてねー、体でね!』

 そんな、なんか微妙に矛盾した理論を展開してから投擲ナイフの扱い方や間合い、動きやすい身の隠し方、位置の優劣なんかを仕込んでくれたのは、よくしゃべる方のラムロットでの同居人。もっとも刃物の扱い以外はちょろちょろ逃げて隠れて回る路上生活で鍛えられてたおかげで割合すぐに身についたわけだけど。
 そのほか短剣を獲物にした剣術、足技関節技なんかの体術は、もうどれをだれに教わったのかなんて覚えてない。あの家に住む三人が三人ともおれの教師で、読み書き計算、魔術理論や実践、各種戦闘技術。暇の合間にそれぞれちょっとずつ違う得意分野を教わってた。
 本当……当時も相当考えたもんだけど、あの三人はなんなんだろうな、一体。学術機関の英知に惹かれて一度離れた世間に舞い戻り、常識を知っておいてよかったとつくづく思う。あの不思議空間の非常識に染まりきる前で、本当に。




 第二の故郷に住む――ただし現在絶賛行方不明中――ちょっとおかしい養い親と同居人を語るのは、ひとまず置いておくとしよう。
 今問題なのは、エルシダでの一件でおれの手持ちの投擲ナイフがすっかり使いものにならなくなったってことである。
 寮の部屋に予備として置いておいた分が、あるにはある。ただ予備といえば聞こえはいいものの、実のところ投げたときの軌道のズレが気になる欠陥品を処分するにできず溜めこんでただけ。とてもあれに自分の命を預ける気にはなれない。

 投擲ナイフは消耗品だ。消耗品とはいえもったいないからできるだけ回収して調整し直して使い回すのが基本とはいえ、いつも回収できるわけじゃない。回収できてもおれが使うのは耐久性に難のある安物、損傷して使いものにならなくなってる率も高い。だからやっぱり結局消耗品になる。
 もう少し価格帯の高いものに手を出せばそこそこ耐久は得られるだろう。けど、自分の手で振るう剣と比べて損失する率が半端ない用途の武器にそこまで金をかけられるかというと……そんな余裕はまったくない。あるわけがない。こちとら最近まで奨学金と臨時バイトの収入で生活してた苦学生だ。おれに根深く染みついた貧乏根性は、国内にその名轟く侯爵サマの家に雇われたからって簡単に変わってくれるほどやわなもんじゃないからな。

 この世には金で買えないものが割とあると思う。
 逆にいえばそれ以外のだいたいは金でなんとかなってしまうっていうな。世知辛い。

 ともかく、学生時代からアイザックによくつきあわされたおかげですっかり馴染みの刀剣屋に足を向けたのは、魔術師認定試験も終わってエルディアード邸への出仕も休みの安息日。十日は前の話になる。
 おれの手持ちの投擲ナイフはもともとそこで調達した量産品だったから、問題なく同じものを前より多く買い揃えることができた。エルシダでたかられていったん軽くなった財布は、……正式雇用にあたって支度金が下りたおかげで今のところ、かつてないほど温かい。おれが期待した金一封は名前を変えて現実になったのな。

 この懐の余裕が、ラムロットからの相棒である短剣を調整に出してみようと思い立ったきっかけ……ってわけでもないな。
 おれと同じく奨学金とバイト代から金を捻出して手に入れた安物の剣を使ってたアイザックがよく「また調整出しー」って愚痴をこぼしてたのに対し、おれの短剣は日常的な手入れ程度で事足りて、一度も専門家に調整を頼む必要を感じなかった、そんな中でのちょっとした疑問をこの機会に払拭しようとした、というのが正しいかもしれない。ただしおれのがアイザックと比べて圧倒的に使用頻度が低かったのを考えると、一概に品質の比較ができないのは重々承知。
 
 エルシダで危機感薄くベッドに置きっぱなしにしてしまったこの武器を使う機会は、これからきっと増える。万全を作るなら一度見てもらっておいて損はない、そう考えた。
 それだけのつもりだった。





「そしたら滅多に隣の鍛冶房から出てこないって噂の親方が出てきて、調整の必要なんてないし、あったとしてもどうにもできないからそのときはユリアン領の剣匠のとこに持ってけって言われたんだけど」

 昨日は遅くまで酒の入った面々につき合わされ、朝からいつもの五割は増してテンションだだ下がりの出仕早々。妙に機嫌の悪そうなハラルドに捕まり「肩慣らしにつき合え」って修練場に連れて行かれた不運を嘆く暇もなく、それはもうこてんぱんに叩き潰された。加減を知れよ。いや、されてるには違いないんだろうけど! されてなかったらこんな軽い打ち身で済んでるわけがないんだけど! 騎士サマが魔術師としても庭番としても新米小僧相手に大人げないっての……。
 ちなみに先に修練場で鍛錬に励んでた私兵たちは、おれが完全に潰されるのを見届けることなくとっくにそそくさ逃げ出て行った。自分たちに火の粉が及ぶ前に。ひでえ。

 そんな貸切状態のだだっ広い修練場。八つ当たりにより実にすっきり清々しい顔になりやがったハラルドに件の話してみたところ、興味を持たせることに成功して見せてみろと言い出されたのが、現在。

 昨日お嬢サマとの計らずした歴史講義で、ハラルドがユリアン領――武器・金物生産国内ぶっちぎり一位のとこの領主一族だって知って「もしかすると見てもらえばなにかわかるかも」、そんな思惑を抱いたわけだ。打算だ。それが、今日普段は持ち込まない自前の短剣を佩剣してきた理由である。

「お前、これ。どこで手に入れた」

 短剣を完全に鑑定人の目で見定めていたハラルドが口にした言葉は、刀剣屋の親方の開口一番と同じもの。どこか恐々としてくぐもって聞こえるその問いに、おれの答えも十日前返したものと一言一句違わない。

「もらった。家出るとき、養い親に」
「由来とか説明は……その調子じゃ、……なかったわな」
「なかった。木の枝みたく軽く放られたし」

 瞬間、ハラルドが顔に刻んだのは、なんとも形容しがたい強いて表現しろというなら呆れと驚きと、ていうか大半がどん引き。それら全部を器用に表明できるハラルドの表情筋は果たしてどれだけ柔軟なのか。おれの表情筋の仕事のしなさとはえらい違いである。

 とにかくハラルドの反応からして、親方も明言こそしなかったものの、この短剣が「上物」なのはもう間違いない。
 装飾なんて言葉から縁遠い無骨まっしぐら、一言で言えば地味。武器が使い手に似るなんてのは武器マニアの自己陶酔だと思うけど、自分と似てないとは言えないかと納得する部分のあった剣が……よもやそんな値打ちもんだったとは。びっくりだ。

「……これな、下手すりゃ俺の持ってる黒刀身以外の剣より価値上だぞ」

 ひどく丁寧な所作で刀身を鞘に納めきったハラルドは、左手にしたおれの短剣にもう一度確かめるように眇めた視線を落としている。

「は? 真面目に言ってる?」
「大真面目に言ってる」
「マジで」
「だからマジよ」

 待って。ハラルドって剣匠がごろごろいる領地の領主サマの息子だよな。侯爵子息サマの側近なんてやってる騎士サマだよな。それが持ってるのより……いや黒の一族秘伝だっていう黒い剣は除外受けたけど、格上? なにそれ。冗談にしてもタチ悪くねぇ?

 ハラルドの手の中にある自分の短剣に、眇めた視線を投げる。うん間違いない。おれのだ。あの安っぽい痛んだ革の吊り紐も、バイト事件のとき盗掘集団のやつらに投げつけてついた鞘の傷も見覚えがありすぎる。あれ、おれの短剣な。間違いなく。いつの間にかここのとすり替わってた線は消えた。いや、もしそうだったらハラルドが気づくよな。てかその前にさすがにおれが気づくよな。

「マジか」

 あの人はなんつうもんをおれにほいっと投げ渡してくれた……っ!
 なんでそんなもん持ってたの、あの人。その金はどこから出た。仕事してるところなんて数えるほどしか見たことなかったぞおれは。
 ああでも……あの家での生活水準て、ラムロットの他の一般家庭と比べると妙に高かったっけな……三食がっつり出されたし、その三食もぶっちゃけ学生食堂のラインナップより豪華だったし、売りものにするでもなく毎日のように卵とかバターとか小麦粉とか木の実や果物を湯水みたく使って焼き菓子量産してるやつがいたし、書庫には本がぎっしりだったし。
 あの人は先祖伝来の財産を貯めこんだ資産家で、おれは散財の手段にされたのか、なんて思ってはいたけども。ちょっと……こういうのは……。

「……そういうつもりで渡したと思う?」

 金に困ったら売れ。
 そんな言葉はなかった。察することができるくらいの高級感も、知った今ですら感じられない。
 さすがにそこらに溢れる量産品じゃなさげだなーと思ってはいたけどさ。武門の名家一族の現役騎士に引かれるほどとは思うまい。

「まあそりゃそうだろうよ」
「これもし売ったら、……売らないけど、その場合奨学金の返還とかって」
「アホか。余裕で釣りがくるわ。その釣りで王都に一軒家建つわ」
「は」

 なにそれ。なんなの。おれが学費援助断ったことへの意趣返しなの。なんなのマジで。ふざけんな。

「まぁ……程度に問題があるっちゃまあ実際ありすぎるが、……いい親御さんじゃねえのよ? 自立する子どもに向けるさりげない心遣い? 生みの親でもできることじゃないぞ。今近珍しい母親の鑑?」
「……」

 母親の鑑。なにそれ。
 ハラルドに差し出された短剣を受け取りながら、笑う。鼻で。今おれはものすごく不遜な顔でハラルドを馬鹿にしてると思う。

 さりげない心遣い? なんだそれ。絶対違う。
 あの人は、今まさにおれが陥ってる状況を想像して楽しそうにほくそ笑んでたに決まってる。そういう意味分からないことに情熱傾ける人だっておれは知ってる。絶対だ。

「……おれ、あの人のこと養い親として感謝はしてても母親だと思ったことない。一度も」

 戻ってきた短剣の柄を呪具を扱うくらいの気持ちで戦々恐々やんわり握り、思いっきり顔を歪めて吐き捨てる勢いで断言する。

「……なんだそりゃ」
「ハラルドの母親像ってどんななの。一般家庭的な例で。具体的にどんな一日過ごすと思うのか」
「あ? そりゃあ……料理とか、掃除洗濯の家事全般に子育てだろ。その合間に編み物とかの実益兼ねた趣味したり? あとは近所の奥さんとの井戸端会議?」

 なるほど。おれの知ってる一般的な母親像とだいたい合致する。ただしおれの知ってる養い親の姿とは面白いくらい重ならない。だってあの人……

「そういうこと一切してなかったから」

 そう。家事とかマジでなんっっもしてなかった。一切合切同居人の二人に丸投げてた。でもって二人の方も率先してやってるっていうか、そういうのあの人に一切求めてない空気だったっていうか。もう何様だよって扱いな。実際「様」づけで呼ばれてたしな。気にしてたらきりなかったから考えるの放棄してたけどな……!

 そういう諸々の諸事情を知らない、あの不思議空間を肌で感じて目で見たわけじゃないハラルドは得心のいかない風で眉を上げ、話の流れ的に至極当然の問いを口にする。

「じゃあ普段なにしてたんだよ」

 知りたいか……。そうだよな、普通聞くよな。そしておれも話したい。なぜかハラルドの中にできあがったらしい母親の鑑という虚像を叩き割ってしまっておきたい。そのためにあの人の実態の片鱗を語ることは避けられない。だからおれは口にしよう。

「毎日新しく作られる菓子食って茶飲んで本読んで、おれとか同居人の相手して、酒飲んで、あと寝てた。ほんとたまーに薬草採集とか調剤とか村に呼ばれたときに薬師の仕事する以外は家の敷地の外にも出なかった」

 どうだ。ひどいだろうが。
 自分でもなんで胸張ってる風なのかわからないけど心の中でそんな締めを結ぶ。てかマジでひどい。言葉にしてみるとひどさがいっそう引き立つな。

 ハラルドはおれの期待を裏切らず、んぁ?! って変な奇声を発するっていう反応を披露してくれた。虚像を崩すことには成功したらしいとあっておれは割と満足だ。

「……それご隠居って言わねえ?」
「うん。正しく、自分のしたいことだけしてしたくないことはしない自分勝手極まりないご隠居性質」

 今まさにハラルドの頭に浮かんでるだろう「窓際の揺り椅子に揺られて居眠りするマイペースなご老人」的な姿を想像し、ああうんおおむねそんなカンジのイメージで間違ってないと誰にともなく頷いてみる。ただし実態は四年前の時点で年齢不詳気味の二十代半ばのねえちゃんだ。おれとか同居人の相手、と適当にぼかした部分に戦闘技術や魔術実践を含んでるわけだから、えらくアグレッシブなご隠居だよな。それを言ったところで、ハラルド伝いに侯爵子息サマに知られて更なる疑念を植えつけるだけなのは明白だから言わないけども。
 ていうか今回既にハラルドに情報を開示したようなもんだよなおれ……この剣を手に入れられる金を持った、もしくはルートを持った人物っていう情報をだな。それだけでもう一介の薬師から縁遠い気が……。

 侯爵子息サマはエルシダでの夜酒以降、おれの養い親について直接なにも聞いてこない。ハラルドだって今日こうやって聞いてきたのが初めてなくらいだ。実はおれの一方的な気にし過ぎで、侯爵子息サマにとっては意外と重要度が高くない……のかも。
 それにほら、酒入ってたし。あのとき。お互いに。あの酒飲みやすさを裏切るきつさだったもんよ。侯爵子息サマは平然としてた気がするけど……あ、でも朝、寝起きは相当悪かったっけ。ジョエルに耳引っ張られても往生際悪くベッドに張りついてたくらいには。意外とちゃんと酔ってて話の内容覚えてないって線も、あるのかもしれないし!

「ちなみにお前なんて呼んでたわけよ、その養母さんを」
「あのとか、ちょっととか」
「まさかの指示語かよ!」
「アレを母さんとか死んでも呼びたくない。今言って寒気したし。だからって名前呼んだら負けの気がして」
「なんの勝負してんだお前。そもそも勝負じゃないだろそれは」
「負けの気がして?」
「……あ、いいわ。いい。いいいいもーいい」

 ハラルドが鬱陶しそうにひらひら手を振った。聞いた俺が悪かったとうんざり謝られる。でもってなんで頭抱えるんだろう。おれ変なことでも言った? 首を傾げても、返ってくる反応が尾の長いため息だけとか。なんでおれ、こんな呆れられてんだ……。

「あー……ともかく、くどいようだが大事にしろよ、それ? サ……その剣なら滅多なことじゃ調整なんぞ必要ないだろうが、まあなんかあったらうちの懇意の剣匠に繋ぎくらいつけてやるよ」
「じゃあそのときはお得意さま割引も一緒に頼んで」
「お前って俺にはだいぶ厚かましいよな」

 あれ、ハラルドはそういうキャラを自分に課してるんだと思ってたんだけど違うの? 侯爵子息サマやジョエルだけじゃなくて、兵士とかにもいじられてるのよく見るし。

 ――と、じとりと生ぬるい半眼でおれを見下ろしていたハラルドが不意に腕組みを解いた。一見真面目に見える表情には、しかしそこまで隠す気のなさそうな含み笑いが刻まれてた。修練場の入り口に向けて動いた目配せに、なんとなく嫌な予感を抱きつつ目だけをそっちに動かしてみる。そして半分開かれた入り口の隙間から中を窺う小さい人影を捉えた瞬間、思わず上体が引いた。
 おれの反応がまあ当然ながらお気に召さなかったらしく、その人間の持つ真っ黒い大きい目のまなじりにきゅっと力が入った。もともと目尻が吊り気味なのと整った造作のせいで要らない迫力がすごい。こわい。

「今、よろしいです?」

 刺々しい目を年相応の少女のそれにころりと変えて、お嬢サマがおれじゃなくハラルドに尋ねる。このあからさまな態度の差……っ! 勝てないけど! 魔術使えるってこと以外、年も背も顔も力も生まれも育ちもその他いろいろなにもかも、勝ててる要素ほぼないけど! ちくしょう、なんかむかつくな!

「いいえロゼリア様。こいつが暇そうにしてたんで引っぱり出しただけですよ。今日でしたっけ」
「はい。連れていっても?」
「どうぞどうぞ。ああ、少し羽目を外すくらいならよろしいですが、身の安全だけを第一に考えくださいますよう。いざとなったらこいつを盾にしてお逃げください?」
「物理的に盾になんてしましたら一瞬で大破しそうな盾ですけれど」
「っ、はははっ。意外と丈夫なお値打ち品ですのでご心配なさらず。そもそも魔術師が二人ですよ? 滅多なことじゃ遅れなど取らないでしょう」
「……ちょっと。これさっきからどういう話」

 嫌な予感しかしないんだけどと口にする前に、わりとダイレクトにおれを貧弱扱いしてくれたお嬢サマがこっちに首を巡らせる。黒真珠の瞳にきらりと険しい光が宿る。

「マーケットへの随行。約束したのをお忘れです?」

 ううっわやっぱり。それまだ有効だったの……。
 いや……来週って言われてからとっくにその「来週」が過ぎたもんだから、てっきり無効になったもんだとばかり。昨日もなにも言われなかったし。気まぐれの思いつきを本人が忘れたか、未だにおれは会ったことがない侯爵サマと奥サマにでも「そんな馬の骨信用できない」って止められたのかと。そんなことなかったのか。止めとけよ親ども。監督責任全うしろ。おれは立派な馬の骨だぞ。

 お嬢サマの本日の装いに目を向けると、なるほど、屋敷で見かけるときのいかにもいいとこのお姫様全開スタイル……ではなかった。中流階級のお嬢さんがちょっと背伸びしてみましたくらいに抑えられてる。髪も二つ横に垂らした三つ編みお下げ。先っぽを飾るリボンだけが真新しい艶を放っているのがますますそれっぽい。なかなか本格的な変装したのな……。服の作りはともかく生地が最上級品なんていうありそうな失敗もない。エルシダでの侯爵子息サマといい、なんで兄妹揃ってこうお忍びに抜かりないの。慣れてる感だだもれなの。おかしいだろ。

 ものすごく気乗りしない、を全力で表現した視線を上向きに送ってみる。ハラルドはお嬢サマの手前、いつもよりほんの少し声質を硬くかしこまったものにあらためて、おれの懇願を正しく理解しつつもそれをばっさり切り捨てた。

「あ、残念ながらクロウは朝から出仕だぞ。ジョエル連れて。旦那様も奥方様も出払ってる。で、俺は今日、これでも留守を任されてる身でな。屋敷を離れられないから、ロゼリア様にチェンジ求められたとしても承諾して差し上げられない、と」

 言外、しかしありありと「止められる人間はいないから諦めてしっかりお守りしろ?」って面白がってる無駄に男前な笑顔が憎い。ついでに上背と筋肉も憎い。……おれはまだ成長期だから。背、去年からほとんど変わってないけど。

 援護射撃を受けて、どうだとばかりにつんと鼻をすますお嬢サマ。うわぁ、この態度苦手。そもそも女らしい女って苦手……って言っても、昨日おれを挟んで窃盗犯と怒鳴りあってたような女なら得意ってわけじゃないけども。
 うん、知ってる。おれ女が苦手なわけじゃなくて知り合って間もない人間全般が苦手ってだけな。その中でも特に、パーソナルスペースにずかずか入り込んでくる種類の距離量ってくれない人間が。知り合って間がなくても、侯爵子息サマとかジョエルやハラルドみたく大人な対応してくれる連中とは問題なくやれるんだけどな……。

「いや、そんな突然言われても「行きますわよね? 用意は必要ないですわ。そのままで十分ですもの」」

 対してこの、口答えとみなされた言葉に被せてずいと詰め寄ってくる、おれとの距離をまったくもって推し量ってくれる気のないお嬢サマである。言ってることいろいろ、悪気がないのはわかってるんだ。でも勢いに引く。その分また一歩踏み込まれる。ぐいぐい来る。逃げたい。

「迷惑はかけませんと言いました」

 いや、そこまで迷惑気にするならお誘い自体が迷惑以外のなにものでもないってことをなぜわかってくれないの……と言いたいけど言えない空気。傍観を決め込んでるハラルドの目元がぴくぴく痙攣してる。楽しそうでなによりだなあんたは。

「ねえラト。あなたは一度交わした約束を不履行にするような方では――まさか、ありませんわよね?」

 お嬢サマが目を細めてにっこりと笑った。
 兄とそっくりの、あこれ逆らっちゃいけない系のやつだなって本能で直感する笑い方。一瞬覚えた目眩は気のせいなんかじゃない。断じてない。
 ……ここで「はい」と頷く以外、おれがこの場を切り抜ける方法があっただろうか。穏便に、あとでいろいろ面倒な事態にならない方法が。あったらぜひとも教えてほしいところである。今後の参考にする。
 それを知っている可能性がありながら見殺しにしたハラルドが、今にも失笑しそうな顔をさっと逸らしたのも、おれが見逃すはずがあったろうか。いや、ない。

 ハラルドいつか覚えてろ。
 お嬢サマがつかんできた腕に想像以上に強い力がかかっていることに軽い衝撃を受けつつ外に向かって引きずられ、にやにやと腹の立つ顔をしたハラルドを横目に睨み通り過ぎたところで――あ、と思う。伝えておこうと思って忘れていたことがあったんだった、と。

 それはおれにはまったく関係のない、ただし今日この屋敷の留守を預かるハラルドには大いに関わってくるだろうことで。まあ、それを伝えたからってだからどうしたって話で、ハラルドの対応が変わるとも思えないし、完全におれの自己満足って言ってしまえばそれまでなんだけども。そんな言い訳を自分にしてる間にもお嬢サマはぐいぐいおれを引っ張って正門まで歩いていくもんだから、もはや完全に機会は失われている。

(まあ……一飯奢ってもらったとはいえ昨日一度場当たり的に会っただけの人間にそこまでかけてやる義理も、ないし?)

 もうおれにもすっかり顔なじみになった門番にうきうきと浮ついた様子で開門を求めるお嬢サマ。逃がすものかとがっちりホールドされたままのこの腕、振りほどいてやれたらどんなに胸がすくことか。いやしないけど。できないけど。昨日の酔っぱらい窃盗犯相手の方がやりやすいとかもうホントどういうことだよ。ため息しか出てこない。

 今日この門の外側で、あれもたいがい距離感取りにくかった二人がこっち側に足を踏み入れること叶わずうなだれるだろう未来が、いともたやすく予想できる。
 頭の中ではやたらめったら声のでかい女が腹式呼吸全開でおれに文句をぶつけている。
 ……ただしおれはあいつらに文句言われる情報をなにひとつ与えてない。自分がエルディアード家の関係者だとも仲立ちしてやるとも言ってない。だからそもそも怒られる要素なんて欠片もないんだけど、あの女は勝手に頭の中で人を指さしぎゃんぎゃんと騒ぎ立てる。うるさい。うるさすぎる。仕方なく、はいはいわかった悪かったよもう、と口の中でおざなりにまったく心のこもらない形だけの謝罪と言い訳を一緒にしておいた。
 それなのに頭からあの女の影が消えてくれないのは、おれが少しだけ、本当に少しだけ、あの二人の行動原理をわからないでもないって思えたからだろうか。










 母親の仇の竜を探しているんだと大真面目に宣言した、あかがね色の髪の姉弟。
 アイザックや周りにいた酒飲み連中の大口開けた爆笑に激高するかと思いきや、顔色も変えず、剣の切っ先みたいに鋭く尖った低い声で「笑いたければ勝手に笑え」と言い返した姉。援護には加わらず、匙で湯気の立つスープの底をすくって「あれ。きみは笑わないんだ」と心底不思議そうにきょとりとした弟。周囲を睥睨する目の温度に、この光景が彼らにとっての当たり前なんだと知った。

 竜。どんな生物にも勝る巨大な体でありながら空を翔ける能力を持ったと推測される、最強の名を関する絶滅種。各所で発掘される牙や爪の存在が、空想に生まれた架空生物ではないと否定する。
 ……生体活動をする個体がいないって時点で現在しない生物なわけだから、そんなモノにどうすれば殺されるっていうのかと突っ込んでおきたくも、あったけども。

『まあ、あそこまで笑うことでもないだろ、と』

 周囲とは完全に異なるおれの反応に既に興味を持ってた弟が、『……君は、馬鹿馬鹿しいとか現実生きろとか思わない?』と重ねて訊いた。

『いや、馬鹿だなって充分思ってるから。でも他人にどうこう言われて考え変えるくらいの軽いもんじゃないってことくらいはわかるし。喜ぶ人がいるとは思わないけど。ていうか誰もなんも得るもんないと思うけど。思うけど、おれしょせん他人だから。あんたらが本気でそれで自分が満足できるって思ってるならいいんじゃないの、それで』

 おれの他人事極まりないいろいろぶん投げた発言に目を点にした弟が、半分残ったスープの中にするりと匙を取り落とす。水音を立てた匙には目もくれない。なにがそんなに衝撃だったのか知らないけども、ぱかりと半口を開けてこっちを見たまま固まっている。
 その間おれはむぐむぐ口を動かしながら、この人黙って立ってるだけなら女が寄ってきそうな顔と雰囲気してんのにもったいないな、なんて場違いな評定をしてたりした。喋ったときの抜けた感じと行動で絶対損をしてきてる。ああ、あの姉の存在は言わずもがな。

 凝視の中での食事に心地の悪さを覚え始めた頃になって、弟はようやく皿の中に水没した匙を見つけ、あ、という顔をした。いまだに腹を抱えるアイザックやその場に居合わせただけの客と機嫌悪そうに話をしてる姉の手つかずの匙を手にとって、なんのこともなかったような自然さで落ちた匙を取り除く。行儀がいいとは言えない気もするけど、一瞬、その動作がなんとなくハラルドやジョエルに通じるものがある気がした。

『ごめん。その……ちょっと今別行動してるけど、俺たちに協力してくれてる人がいるんだよね。その人が最初、今君が言ったのとまったく同じ容赦ないこと言ってくれて。っはは……本当、まるっきり同じこというからなんかびっくりしちゃって。でも君とはだいぶ性格の方向性が違うんだよねぇ。もしかすると根本が近いのかな。だとすると根本、どっち寄りなんだろ……』

 へにゃんと眉を下げて破顔した弟は顎をつまんであらぬ宙を見つめ、おそらくその協力者とやらの性質について考え込んだようだった。
 そして『俺たちしばらく王都にいる予定だから一緒だったときにまた会うことがあれば紹介するよ』なんていうよくわからない申し出に、へえと適当に返事をした。
 同じようなこと言ったからってそこまで驚かれるような大層なこと言ったわけでもなし。第一、紹介されたからってなんになるのか。同類同士、友達少なそうだから親睦でも深めればっていうのか。いらない世話すぎる。というかおれ、あんたらにもう会いたくねぇわ……。










 メルとアドル、二人の姉弟。
 おれがこの二人に出会わなければ。

 もしかしてなにかひとつくらい、未来は変わっていただろうか。
 おれが手繰ってしまった、繋がなければよかったかもしれないと後悔した、このときにあっては未来の姿。

 それを知る手立てはないと、識っている。