数刻前、執務机の書類の山にさりげなく乗せておいたそれだけがぐしゃりと握り潰された形で廃棄箱に投じられていた。
思わず肩で息をつく。わざわざ執務机から一番遠いこんな入り口付近まで投げ入れに来なくてもいいだろうに。
そんなに嫌なのかと考え――私が同じ立場であったら嫌に決まっているなと思い至ったのはわりとすぐだった。そこはあまり慮ってやるつもりもない。自分を相手の立場に置換して物事を捉えることの大事さは識っているつもりだが、なんでもかんでもそうしていては身が切れる。
「虫下しの丸薬だけを綺麗に皿に残す犬でもなしに」
無言の抵抗の意志がこれでもかと刻まれた紙束を腰をかがめて救出しつつ、ちらと横目で部屋の奥を窺う。聞こえないわけがないだろうに。執務室の主はしかめ面の対の目を机の上に滑らせるばかりでこちらを見ようともしてこない。
かりかりと羽ペンが紙を引っかく音だけが、開け放された窓を通じてかすかに聞こえる鳥のさえずりに重なって、どこか心地よく耳をくすぐる。
「スターク。そろそろ諦めたらどうなの」
応えはやはり返らない。
物心つく前からのつき合い、むっつりと唇を結ぶ従兄が沈黙になにを語るかなどは手に取るように伝わってくる。
曰く、『諦めたら終わる』。
まったくもってその通りではあるのだけれど。いい加減にしてほしいと願うのは、私が所詮他人とまでは言わないまでも別の個体であるからだろう。
皺を伸ばした書面の開いた適当なページに記されている文は読み手に苦痛を与えにくいよう整えられており、ジョエルの用意する書面と比べても遜色ない出来栄えだ。どうにか目を通してもらいたいという文官の一心の表れだろう。が、それはそれ。計算された文脈と心遣いで中身の面白くなさが緩和も変わりもしないことを、私は自身の経験でもって心得ている。
「ミンス侯爵令嬢エレイン。年は二十と少し高めだけれど、君とはその方が釣り合うのではないかな」
以下、金茶の巻き毛をゆるく結い上げたどこか気怠い雰囲気の女性を写した絵姿の横。美麗賛辞を尽くした文句の羅列を読み上げる。
一枚目を朗読し終えても反応がない。効果は薄いかなと思いつつもまた一枚、紙を捲る。
「では次いこうか。クランディオル伯爵令嬢ベルテ、年は十八。今年王立学院の魔術部を卒業した魔術師。術者同士、話が合うのでは?」
「うるさい黙れそれ以上耳障りな情報を俺の耳に入れるんじゃない」
スタークの手の中で羽ペンがべきりと破滅の音を立てた。
次いで、真ん中で二つに折れたペンの成れの果ての片方がからりと転がる音が。インクが書面に散ったのだろう、己の所業によって作られた惨状を嫌そうに見下ろしている。
使いものにならなくなった紙を乱暴に握り潰して足元の廃棄箱に投げつけたスタークは椅子を乱暴に蹴り飛ばして立ち上がると、私の立つ傍のソファにどかりと座した。どうやら仕事を続ける気分ではなくなったらしい。
「もっと新鮮味のある話題なら聞いてやる」
椅子が倒れた派手な音に顔を覗かせたスタークの側近が様子を素早く窺い、私が軽く首を横に振ったのを確認すると、すっと一礼して気配を消した。
座れと顎で示され、ふかりとした包容力に絶妙な反発を備えた座面に腰を下ろす。ただし要望の方は叶えてやるつもりはない。
「王太子殿下。そろそろ観念して身を固めてはいただけませんか」
「口調でなく話題を変えろ。言い直すな気持ち悪い」
「わかったよ。では、百歩譲って結婚しろとは言わない。せめて世継ぎは作ろう。元老の狸爺どもたぐうの音も出せない相手との間に。それなら私だって言いたくもない小言を小姑よろしく顔を合わせるたびに言う必要も」
「するか阿呆」
第一話題が変わっていない聞かんと早口でまくし立て、スタークは私の手から縁談目録をひったくると全部まとめてびりびりに破り始める。
可哀想に。主に書類をまとめた文官と、絵姿を依頼された絵師、あとは気持ち、ここを掃除する侍女が。
手にはりついた細かい紙くずを振り払うスタークは心なし晴れ晴れとして見える。私は対照的に、ああ今回も駄目だったかと諦め混じりの息をつく。
最初からたいして期待もしていないわかりきった結果ではある。けれどもそろそろこのやり取りにも飽きてくる。
私がほとんどこのために登城させられているという事実を慮って観念してくれてもいいものを。我ながら、相手の心情を完全に棚に上げた自分勝手な言い分である。
「小言を言わずとも済む方法なら他にあるだろうが。何度でも言うぞ。俺はお前が王になるとさえ言えば喜んで継承権の一位を譲ってやる。その方が喜ぶ輩は多いことだしな。ほら言えさあ言え」
「……私は成人の儀で王位継承権などというものの放棄を宣言したはずなのだよ。しかも一度は受理されたはずなのだよねぇ。それなのに、普段はお互いの揚げ足取りに熱心な元老の血統至上主義者どもが、徒党を組んで真王色の王族の継承権棄却はまかりならぬと騒ぎ立て。邪魔なものがなくなって心置きなく武の道に集中できると励んでいた私の元に当たり前のように戻ってきたわけだよね、継承権が。
あのときほどにこの目を両方抉り出して踏み潰してやりたいと思ったことはなかったよ」
体格や顔の作りなどは、男親と女親それぞれが持つ祖先からの特徴要素が絡まり合った結果、身体的特徴が混じり、子ども側の性別によってもどちら似とつかないものになることがある。
が、髪や目の色が異なる場合は混ざって中間色になることはない。大抵はどちらかの親と同じ色を持つ。そうでなくとも世代を遡れば、必ず誰かしらが同じ色を持っている。
世代を跳躍して身体的特徴を後世へ伝えるこのような現象の名を劣性遺伝と名づけ仕組みを論じたのは、血統尊重主義の貴族一派が後援していた一昔前の生物学者だったか。
そのような一派に擁されていたとはいえ、本人とて嘘偽りを提唱したつもりはないだろうし、後世の生物学者たちもこぞって彼の論に是と唱えている。
そして、この論に徹底的な決定打を与えているものを、私は両の瞳に宿している。
由縁は初代。始まりの建国王。
今は彼の生きた時代に比べて他国との交流が盛んになった。人の流入によって瞳だけでなく髪の色、肌の色が豊かになったと比較できる。
それでも紫色の瞳を持つ者だけはいない。
交流のない他大陸にでも行けば目にすることができるかもしれないが、今それを視野に入れるのは無駄なことである。
現在確認されている紫瞳の持ち主は、私ともう一人――イヴァンの王女が嫁いだ過去のある隣国の姫君のみ。
これが、瞳の紫はかの建国王の血を継ぐ者でなければ発現しないとされる理由であり、結果だ。
滅多に生まれない希少種であることに建国王が持っていた特徴という大量点が加わり、血統至上主義者たちによって真王色と名をつけられた瞳の色を持つ人間を祭り上げ、正当な場所に立つ次代の王を押しのけてまで王に据えようとする。
その風潮が滑稽でならない。
彼らはわかっているのだろうか。
学者は、真王色の遺伝現象を「劣性遺伝」と名づけた。劣っていると――同じ土俵に立った時ほとんどの場合で打ち負かされてしまう、弱者に分類されたのだ。
その弱者の要素を真王の証と神聖化し崇め奉り、王に戴こうとする輩の気が知れない。
弱者は淘汰され、消えてゆく。それが世界の理。
生物の霊長として知恵を得ても、人間は所詮、世界に従する世界の子。
理の執行者たる神でもなければ逃れられない摂理が降りかかることなど、歴史が証明しているだろうに。
……ああ、その神も今はない。神ですら終わりからは逃げられないということなのだろう。
真王色を宿さないイヴァンの王族として一般的な翡翠の緑に落ち着いた色味の金の髪――どちらも私の母上と同じ色を持つ従兄は、侍女が淹れた紅茶の水面に檸檬を揺らし、実に彼らしい、しかし実のところ私の前くらいでしか見せない皮肉を混ぜこんだ自嘲の笑みを惜しげなく晒してからからと笑う。
「ははっ。あの連中は半年先に直系男児の俺が生まれてたってのに、お前が真王色を持ってると知った途端、俺を放り出して担ぎ上げにかかったそうだからな。そりゃ簡単には逃さんだろうよ。爺様の代にも父上の代にも出なかった分、余計にな」
「逃げた先でまた厄介な事実が浮いてきたしね。嫌になる」
「ん? アレが発覚したのは一周半回って僥倖じゃないのか」
「確かに威力の高い口実にはなっているようだけれどね。嫌だよ、さすがに」
「ああ、まあさすがに血の匂いだかなんだかに酔って前後不覚に陥って、目に入るもの全部斬り捨てにかかったようなやつよりは俺の方が扱いやすいだろうな」
「……抉ってくれる」
鉄錆よりもなおも濃い、血と臓腑の匂い。
死を覚悟した鬨の声。痛みにもがき、助けてくれ、いやいっそ殺してくれと錯乱しつつ懇願する歪んだ顔。愛しいひとを呼ぶ者の、光の消えた目。
無形の、無音の怨嗟が渦をなしていた、クレメール。
匂いはともかく遠目にも見えないはずの彼らの表情や、耳に拾えないはずのかすれ声までが鮮明に頭に直接流れ込んでくるように知れたのを、そのときですら明らかに異常と覚えた。
目から、耳から、鼻から、体のありとあらゆる部分から浸透し、浸潤し、めちゃくちゃに混色された濁った絵具を塗りたくられるように、視界が赤黒く塗り潰されていく。
闇の沼地に頭の先までとぷりと沈められた気がした。浮上しようと身じろいでも、僅かの抵抗すら捕らえられない。
赤い闇に侵食された、呑み込まれたと感じたのが最後の記憶。
意識が途切れる間際、情けなく崩れた身体はすぐ近くにいるはずのハラルドかジョエルが回収してくれるだろうと信じて疑わなかった。
落ちたとばかり思っていた意識が、実は「私」の預かり知らぬ場所で保たれ身体を動かし、情け容赦なく敵を屠り続けて止まらなかったという事実。
それを聞いて芽生えた感情は――ただ、おぞましかったとしか形容できない。
ただひとつ明確なのが、自分が自分でなくなる、知らぬ場所で自分が親しい者すら傷つけ命を刈り取ってしまうかもしれないという恐怖。
恐れを冷静に見つめられるようになったとき、これまでの生き方を目標を、他ならぬ自分自身に全て否定されたのだ感じた。
自己完結に決めつけて、案じてくれる者から逃げ、目を耳を塞いだ。
私はもう戦場で人を率いる者にはなれない、自ら剣を手にして守る者にもなってはならないのだと強く心に刻んだ。
他人からはどう怯えられようとどうでもよかったが、話を聞きかじったらしい弟妹たちが怯えたように身体を強張らせ目を泳がせるのだけはそれ以上見られなくて、顔を合わせる機会の多い領地の本邸から疎遠になった。
目と耳を開き、以前と変わらず笑えるようになってからも、深く刻んだ決意と自己から否定されたという思いは変わっていない。
それらをこの、実の弟妹よりよほど近しい従兄に理解しろとは言わない。
いや、おそらく私が思うより多くを理解してくれていることを知っている。だからこそ、こうも軽く話題に上らせるのだということも。
腫れ物に触れるよう扱われるより、ぞんざいに転がされる方がずっと心が救われる。
「長い反抗期の最後に得るものがあってよかったじゃあないか、ん? おかげで俺はこの有様だが? あっちに行ってもこっちに行っても見合い結婚世継ぎはまだか。うるせえよ黙れっての」
「はは。頷くまでは黙らないよ」
「それに比べてお前は家督継承放棄、妻も娶らないし子も作らないとかなんだそれは。ラディウスと叔母上からも、うちの父上の承認も受けて。アルセウスは今季で成人。そこで正式に次期エルディアード侯爵と認められれば晴れてお前は自由のだと? 表向きだけでも羨ましい」
「父上と母上もねぇ、内心納得いかないようだけれど。それに比べてアルはもの分かりが早かったね。なんというか、あれは私よりよほど責任感の強い長男気質だと思うよ。士官学校でもよくやっていると聞くし、将来君の良い剣になるよ」
「それは上々。楽しみだ。対してお前は完全に一人息子気質だからな。下ができても自由度がまったく変わらなかったとはどういうことなんだろうな」
「うん。否定できないねえ」
「弟妹みんな平等に王家の血は入っているんだから、その目の確率的には誰が家督継いでも変わらんのじゃないか? ついでに正味な話とするとだな、お前溜まらんのか?」
「下世話な心配は無用です殿下」
いい年した男として身体機能を疑うぞ、どこのとは言わんが、などと真顔でうそぶいている従兄に冷笑を贈りつつ、ぬるくなった紅茶に口をつける。
……なにも真王色の遺伝だけを考慮して種を絶とうという力技に踏み切ったわけではない。
狂戦士、死神と遠巻きにされる、指導者としても武力を従える者としても枷にしかならない気質と思われる性質。
それこそを、誉を伝える騎士一族の本流に投じてはならないのだ。むしろそちらの思いの方が強い。
エルシダで、ホークを串刺したまま瞬き一つのうちに消えた金髪の男がいた。
紅い瞳に不気味な光を宿していたあの男は、この現象についてなにかを知っているような口ぶりだった。噎せかえるまでの血肉の匂いなどなかったというのに無意識にまた「向こう側」呑まれかけていたらしい私を指して、「穢れに冒された」と言ったのだ。
あの状態に陥っているときの私の目は、どういう作用か紫紺ではなく赤に染まっていると聞いている。だがそのような微細な変化を心得ているとは思えない他人から、当然のように「穢れている」などと不本意な指摘を受けた理由が知りたかった。
ホークの件と並行して行方を追わせ調査させているが、まったく情報は得られていない。
このまま芳しい成果が得られないようなら致命傷を負っていたホークの方は捨て置くにしても、あの男の方は危険度を考慮しないにしても諦める気になれないに違いない。
それに……エルシダといえばそれだけではないのだ。
底にうっすらと茶に染まった檸檬を残したカップを下ろし、これから話さなければならない話の内容を思い、進まない気を吐息に変える。
スタークが片眉を上げた。興味が惹かれたときの仕草だ。これはもう、後戻りができない。
「……面白くない話がある。聞く?」
「本命はそっちか」
スタークが自分のカップに残った種を除かれた輪切りの檸檬をひょいと摘まんで口に放る。嗜好よりも健康を第一に考えられて作られる食事に刺激物が出てこないのが不満らしく、時折紅茶に入ってくる酸い果実を口にするのはスタークの昔からのお気に入りだった。それは今も変わらないらしい。
「爺様が崩御される間際、私とアリエが聞かされた例の話は?」
「ああ。爺様付きの筆頭騎士が妹姫と駆け落ちして、探し出して両方殺しちまったっていう。おいおい爺様なにやってんだって話なあ」
「そうそれ」
「俺もさすがに気になって調べた。当時のお前んとこの当主の次男だったろう。なんていったか名前。……うむ、忘れた。記録では任務遂行中の殉死になってたな」
「うちの方の記録も同じようなものだった。爺様の密命ということ以外、詳細はさっぱり。しかもそこまで昔の話でもないのに、それ以外の彼の単独記録が本当に見つからないのだよ。本邸にもどこにも。意図して消されたように彼だけね」
「周到が過ぎるのも疑念の元ってな。で、お前の先代の真王色を持ってた妹姫の方は、エルディアードの次男の殉死よりも十年以上前に当時の本来の王太子だった爺様の兄と一緒に六歳で死んでるとくる」
崖の崩落事故。
その出来事により兄と妹を一度に失い、一転して王太子に据えられた祖父は心を凍てつかせた。そしてその事故を、当時最も折り合いの悪かった国、ウルスペディアの工作員による謀殺であったと断じた。
四十年戦争の始まりには諸説あるが、通説はそれだ。生前、祖父は一度としてその開戦理由を否としたことはないという。だからといって真実と決める材料にはならない。祖父は政治に関して以外、必要なことであればあるほど言葉の足りない人であったことを私は知っている。
「だが死者と駆け落ちはできんからな」
「人の口に戸は立てられないとはよく言うけれど。王城の奥殿なら比較的簡単にできるよねえ。籠の鳥」
「奥殿と言わず、離宮でも充分だったようだぞ。該当時期、用途に不審点のある離宮が一つ見つかったとアリエが嬉々として報告してきた」
「さすが。そのときの引きこもり日数は?」
「はっ。数える気にもなりゃせんわ。俺よりあいつの方が必要だろう、見合い話が。二十五にもなって行き遅れもいいところだ」
「ああ、うん。そうなんだよねぇ。でもアリエの方はねぇ、伯父上たちもちょっと諦めている節があるからね……」
記録発掘と検証といった歴史方面に多大な情熱を傾け、我が道をゆく研究者気質の従妹は悪い人間ではないし、子どもの頃はそれなりに社交的でもあった。素体の見目にも恵まれているはずなのに、どう育ち方を間違って、ああも姫君という尊称がとても似合わない種類の人間に成長してしまったのか、ほとほと謎である。
ほとんど匙を投げている王夫妻の心労は計り知れず、兄もこうして頭を抱えているほどに。
まあ、アリエの嫁ぎ先を探すのも重要事項ではあるのだけれどと前置いて、一度と呼吸を置く。
柄ではないと思いつつ、本気で言い出しづらかった。
だがこういうものはさっさと言ってしまった方がお互いのためでもあると居直ろう。
「ラムロットに真王色を持つ者がいる」
スタークの動きが、妹に対する嘆きに頭を抱えた姿勢のままに時を止めた。
その表情がじわじわと羽ペンをへし折ったときの五割増しに嫌そうなものへ変化していくのから焦点を外し、努めて心を無にする。
「正しくは、いた、かな。行方不明中らしくてね。人物情報自体もまだ伝聞の域で諜報側からの確証を取れていないのだけれど。……その可能性は高いと、ね。考えてしまったわけだよね」
野に下った王の血族は多くはない。が、存在する。
そういった者たちは数代の間は監視されるが時の流れと共に彼らの血は薄れ、監視する側の記憶から消えてゆく。そんな者たちによって継がれてきた劣性の要素がなにかの拍子に現れたとしてもおかしくはない。
だが、そのようなわずかな記録を残して消えていった者たちと同列に扱うには、祖父の語った二人の駆け落ち者の生きた時代は近すぎる。その近さゆえに生き証人から記憶の断片を渡された私の存在がある。
真王色の姫とエルディアードの次男の間に忘れ形見がいたのではないかという可能性。
そしてその種が巡り、あの少年の養母だという人物に発現したのではないかという疑念。
村落から離れた森の中、人を避けるように暮らしていたということ。さらには少年の身上調査で人を向かわせたとき、しばらく見ないと口を揃えるくらいには交流を持っていた彼女についての情報が、村人の中から抜け落ちるような不自然さで消えていたことにも猜疑心を煽られる。
いくら深い部分を知らなくとも、雰囲気や話し方は覚えているのに髪の色、年格好を忘れることなどあり得ない。
村ぐるみで口裏を合わせ謀っていたのではと問えば、村人の側に不審点は感じられなかったと断定された。おそらく忘却の魔術が働いているのではと仮定を受けたものの、ラムロットで調査を行わせた者は魔術に通じない者であったため、今も仮定のままである。
初めはその部分をつつこうと酒を持ち出し彼女の養い子であった少年に探りを入れたのだが――まさかこれほどの爆弾を引き当ててしまうとは。完全な誤算だった。
「それもう利用する前段階として拉致されてるとかじゃないだろうな?」
「違うと言い切れないところが厄介なのだよ」
村から嘆願を出され、足がつくのを恐れたがために、ラムロットの村人全員に忘却の魔術を施した――可能性としては十分に考えられた。
が、スタークには、そこまで大掛かりな魔術を施すよりも金で沈黙を買った方がずっと早いし確実だと疑問視された。
基本的に、忘却というような精神や記憶を操作する魔術は、暗示、思い込み作用を増長させる効果でしかない。ゆえに人それぞれの記憶力や意志の強さに左右されやすく、効果が安定しないのだと。個人に集中して定期的に記憶消去を上書きするのならまだしも、村ひとつという単位を相手にそこまでするのは結果に見合わない徒労でしかないと言うのだ。
母や妹に意見を問うには気分的に憚られ、他に気安く相談のできる魔術に精通した者もいなかったため、なるほどといったところだ。
久々の魔術談義ができて気分が高揚したらしく、一瞬だけ今日一番に晴れやかな表情を覗かせたかに見えたスタークだったが、すぐに事態を思い出し、「とにかくさっさと出自確認。現在地と状況を捕捉しろ。できれば確保。まあ、やってる最中なんだろうが。人員必要なら幾人か回すから使え」とげんなりした空気を背負って腕を組んだ。
了解、と頷いた私も同じ空気を全身にまとわりつかせているに違いない。気が重い。
「ああもう嫌だ嫌だ。元老のくっっそじじいどもが結託増長してそいつを持ち上げる様が目に見える。ぞっとする。お前なら喜んで差し出してやるが、ぽっと出の、帝王学のての字も知らんようなやつに次の王座なぞ死んでもくれてやらんぞ俺は。傀儡政治まっしぐらだろうが、もう」
「やめてよ。君が死んだら高確率で私にお鉢が回ってくる」
「いっそそうするか。ああそれがいい。うん」
「ねえ、怒っていいかな」
まったく、明らかにしなければならない案件が一気に増えて気忙しいことこの上ない。実際に動くのは私ではないのだからあまり文句を言うべきでもないか。
あの少年にもそろそろ本格的に仕事をしてもらうとしよう。ホーク関連の方なら本人も気にしているだろうし、よもや嫌とは断るまい。
彼は育ちの逆境により、おそらく単独での引き際はよく心得ている。
深追いせず引き際さえ見極めてくれれば多少の失敗には目を瞑ろう。
彼はまだ、失敗を重ねて成長する時期にある。その時期に失敗をしないのは過信を招く。私に必要なのは使い捨ての即戦力ではない。
時を見極めなくてはならないのは、むしろ私の方だ。
環境に恵まれ、守られてきた自覚がある。失敗などいくらでもしてきた。だからこそ、領分を知った。自分はなにを持っているのかを知った。
立場を利用してできること。
自分の力だけではどうにもできないこと。
弟妹に嫌われたくはないという人並みな願いもあったこと。
自分で思うよりもずっと、自分勝手で利己的な人間であること。
手放したくない場所があること。
捨てられない誇りを持っていること。
誇りが少しの足しにもならない場所があること。
もう、それらを知るために試行錯誤をする時期は過ぎた。
これからは確実に成功への道を作り上げて結果を出さなくてはならない。私自身の成功のためにではなく、整いつつある兄の盤石を揺るがさないために。
それは決して全てが兄のためとは言えない。
私自身のため。私の場所を、私が私である意義を失わないための手段。
「大丈夫だよ。彼女が表に出てこようとするのなら。出そうとする馬鹿な輩がいるのなら。彼らの目論見が形を作る前に。全て、無に帰してみせる」
従兄として、幼い頃から共にあった。
半年の遅れなど始めからなかったかのように成長早く一歳も二歳も大きく見られる身体で、従兄の手を引き従妹も加えて、王城を、庭を駆け回っていた。
己よりは小さな身体でいつだって堂々と胸を張り、影で次代の王には分家の真王色の方が相応しいのだと嘲笑を受けても卑屈にはならなかった従兄。
私の方は僻み妬みを拗らせて背を向けてしまった時期が長くはなくともあったというのに。自分のことしか考えられず、自分勝手な行動を繰り返して反抗した私より、ずっと器の広い、仕事熱心な兄。
そんな人の剣となり、盾となりたかった。
自身こそが兄の立つ場所を脅かす最たる存在でなければ、叶っていた未来だろうか。
守るべき君主の座を危うくするものと分類され、自らの意思と関係なく剣を振りかざしてしまう恐れのある身では盾にもなれず。日向の場所で傍に立つことすら許されないのなら。
この身を影に潜ませて、異なる影の中、息を殺して牙を研ぐ輩を貫く刃となろう。
平時はその存在を隠して鞘ごとしまわれる懐刀。
私では完全に隠れることは難しいだろうことは承知の上。それでもあえて、懐刀を自称しよう。兄がそうあることを認めてくれさえするのなら。
「全任する。俺の懐刀」
「慎んで。その任、承りましょう」
それもひとつの、私の成りたかった騎士の形。