歌が聞こえる。
時折片鱗をのぞかせる夢の欠片は、歌に始まり歌に終わる。
声の持ち主の名を、僕は知らない。
けれどもあれは――きっと僕の、僕たちの母親なのだろうと思っている。
顔も覚えていない母親というもの。
声を、旋律を覚えているというのは自分の記憶ながらもにわかに信じ難い。それでも覚えているのは事実だから。
記憶にあるのは音だけだった。歌詞はわからない。最初からそんなものがなかったのかどうかすら、わからない。
そんな、旋律だけのこの歌を口ずさむ理由はただひとつ。
妹の心を少しでも揺さぶるため。
もう完全に感情をなくし、自我をも失ってしまった妹に、欠片でもいい、届けばいいと。
今の僕には本当に、そのくらいしかしてあげられることがないんだ。
「すべて」に匹敵するような力なんて要らなかった。大切な一人さえ守れる力があれば、それで十分だったのに。
それなのに。
僕には、そのたった一人を守る力だけが、与えられない。
僕に許されたのは、表面だけの癒しを与えることだけで。自我を失ったその下で、こんなことはしたくないのだと泣き叫んでいるに違いない心に、触れることも癒すことも慰めることもできやしないんだ。
……ごめんね。
こんな、役立たずな兄さんで。
いつか自分が壊れゆく未来。
僕には簡単に想像できる。
きみと共に滅びの道を歩む未来が。
そしてまた、僕ではない僕が同じ思いを繰り返す。僕の前がそうだったように。
せめてその時が来るまでくらい。
きみのそばで、歌を唄おう。
いつか、もしも心の自由を得たきみが。この旋律を口ずさんでくれる未来を夢に見て。
時間軸:本編よりだいぶ昔